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菅野所長のエッセイ:置き去りにした悲しみは

先週GⅠの連勝が途絶えてしまった。パドック中継でロゴタイプを見てその出来の良さに心を奪われてもすでに遅かった。残念。

山道に置き去りにされた子どもが無事発見された話だが、世界的にも行きすぎた「しつけ」として批判されているようだ。もし死んだらどうするんだということでもあるだろう。それはもっともだ。

以前にも取り上げているが、日本では子どもを殺すということにかんして緩い文化である。昔、貧しい山村、農村で間引きは公然と行われていた。だから、今でも自分の子どもを殺してしまうけっこう親がいて、よくニュースになる。これに対してヨーロッパでは子どもを捨てることはあってもあまり殺しはしなかった。だから捨て子の数はものすごく多く、それに応じて施設の数もすごい。その流れがあるから、欧米では養子が多いわけである。

そういう感覚を日本人はほとんど持ち合わせていないだろう。が、日本では両極化しているのであって、一方ではすごく保護的かつ干渉的な親も多い。しかしこの両極は通底している。子殺し、それと対照的であるかのような過保護、いずれにしても、子どもは親の所有物であるという感覚が根強くそこにはある。つまりは、子どもは自分の財産である一方、社会の財産でもある存在だという認識に欠けるところがあるというわけだ。

こうした文化は一般的な「公と私」の感覚にもつながっているのかもしれない。舛添知事は「公私混同」と批判されるが、そもそもこの人には「公」というものがなさそうなので、その批判は外れている。たぶん彼にとって「公」とは文献の中に存在する概念であって、彼自身の中にはないのだ。

ちなみに、毎週金曜に都庁から世田谷の自宅に行き、湯河原に向かっていたのであるが、きっとそのとき家族も同乗しているんだよね。正月の家族旅行も公用車で行ってるんだよね、きっと。だって交通費が計上されてないもん。このあたりはまだ追求されていないのではないのか?

彼には「私」しかないわけだが、これは結局他人の気持ちを斟酌する力がないことをあらわす。だから平気なのである。たいがいの人はあそこまでマスコミにたたかれたり、議会で糾弾されれば耐えられなくなってとっくに辞任するだろう。それは精神的に弱いからではない。他の人の気持ちを考えることができるからそうなるのである。舛添が知事の椅子に執着するのは、その私欲と正比例して、他者感覚(=公)が欠如しているからである。

こういうところから最近思うのは、私欲を前面に出し、自分のために生きるのは、倫理、善悪ではなく、社会を生きる戦略として間違っているということだ。こういう人の人生はある時期はいいのかもしれないが、どこかで必ず破綻しているのではないか。舛添、猪瀬、ホリエモン、村上、あるいは不祥事を重ねる企業の一部の上層部、社会の中で生きる戦略としては「他の人のために」を捨象するべきではないと、最近僕は理論的に思うのである。

さて、置き去り事件に戻るが、世間では意外と批判ばかりではないところがあってそれが興味深い。たぶんそれは一般論としてばかりではなく、この親子関係が多少特異だったということにもあるだろう。どういう背景があるのかは知らないが、見知らぬ他人に石を投げつけてしまう子どもを持った親の苦悩はいかばかりだろうか。この前段を聞く限りでは、これはよくても発達障害的なものではないか、とにかく、言葉だけで何かを理解させるのは難しい子どもなのではないかと僕などは思ってしまう。もちろん罰としての置き去りがいいのかは別にしてなのだが。

あまりにも言うことを聞かず泣き叫ぶ子どもがいて「そんなことしてると置いてっちゃうよ!」と先にスタスタと歩いていく母親を見ることがあるが、それを見て残酷な親だと思うことはほぼない。自分も子ども時代にもそういうことをしていたかもしれないし。私の兄は子どもの頃に家から追い出されて、ずっと木の上に登ってべそをかいていたが、そういうことまでしないとおさまらない子どもだったと後に親は述懐していた。

「しつけ」とは「躾」と書くように、「教育」とは少し違う。これは善悪を身体で覚えさせるということである。ネコや犬が悪いこと(飼い主にとって)をしたら頭を叩くとか怒鳴りつけるとかするのは、それが悪いことであると理解させるのではなく、それをしたら罰が与えられることを学習させるためである。言葉が通じる相手ならともかく、そうでなければ違う方法が採られるとが常識。これは人間にも通じている。まだ社会化されない段階の子どもに対しても、私の兄がそうされたようにひとりぼっちにさせるやり方は一概に悪いこととも言えないのではないかと思う。

ましてや人に石を投げる子どもである。これがおさまらなければこの子に社会で生きる術はない。親は毎日必死の思いでこの子と格闘していたことであろう。それに普通は、置き去りにされたとしても、親は戻ってくるものだと子どもは考える。その場から遠く離れてしまうこの子はやっぱりちょっと難しいのかなあと僕は思ってしまうのだがね。

この事件に対して教育評論家の”尾木ママ”がかなり失礼なことを述べ、ブログは大炎上という話だ。そもそも大した定見もない際物というのが僕の認識だったが、こういう人はだいたい自我が肥大していき、自分は正義の味方だという勘違いをしていくものだ。そこに鉄槌が下ったのはよいことだな。しかし舛添とは違って、彼にはまだ「教育」が適用可能なところがある。

結論。北海道の原野に置き去りにされるべきは舛添なのだった。

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