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年の終わりに

 暮れになって,僕にとっての明るいニュースは、女子サッカー皇后杯の、日テレの下部チーム・メニーナの快進撃である。メニーナはの平均年齢は16歳代、中学生と高校生から成るチーム。3回戦で、現在リーグ無敗のINAC神戸を2-1で下して驚かせた。そして、昨日の準々決勝では大宮アルディージャを4-0で圧倒。相手はどちらも、代表選手も抱えたプロの”強豪”なんですけど。

 とんでもないジャイアントキリングだが、観ているとほんとに強く、いいサッカーをする。スピーディーでコレクティブ、個人としては左MFの松永、再三相手陣を切り裂くスピードは、たぶん現在の女子サッカーで一番で、足元もうまい。この子がまだ中学3年で、DFレギュラーには中1もいる。まあ観ていると、コーチの腕もいいのだろうが、かつて世界一だった女子サッカーを没落させた佐々木とか高倉といった監督や、協会の上層部をあざ笑うかのような見事なチームである。テレビ中継などしないだろうと思っていたので、準決勝は宇都宮のカンセキスタジアムまで観に行こうと思っていたが、中継があるということだ。夜7時の極寒の観戦はなくなったかな。

 たぶん彼女たちがこぞって読んでいるのは、女子サッカーへの愛であふれるコミック「さよなら、私のクラマー」であることだろう。前にも取り上げたが、凋落一途の女子サッカーの希望はこのマンガにしかないと思っていた。つまりはフィクションの中にしかないと。だから、現実にメニーナが出現したことには驚きを禁じ得ないが、かつて沢や川澄がまいた種は、凍土の中で生き残っていたということなんだろうな。あのマンガがそうであるように。

 とにかく、協会はただちにこのチームを中心にして代表を編成するべきだね。コーチも同じ。そうすれば、何年後かにはとりあえず世界でベスト4くらいまでにはいけるんじゃないか。

 

 コミックといえば、菅原道真と在原業平が知り合いという設定で、都に起きる奇妙な事件を解決するという「応天の門」というのがある。まあありえない設定だが,平安好きにはたまらない。

 この中に、道真の友人として紀長谷雄が登場するが、女好きでおバカな人物と設定されている。ところが、実際の紀長谷雄は違うようで、太宰府に流された道真が都における詩や文学の衰退を嘆くとき、まともなのは紀長谷雄くらいだと述べている。実は、道真も認める詩人であったし、詩は道真にとってたいへんに大事なものであるから、紀長谷雄は大事な友人として認められていたというべきだろう。

 白楽天は、詩と琴と酒をもって「三友」としたが、道真は音楽も酒もダメで、詩と学問しかないきわめて真面目な人だった。その真面目な人が、政争により左遷されたわけで、その胸中はいかにも無念だったろう。とはいえ、道真の事件がある前から、情勢としては詩人無用論という大きな流れがあったらしい。大友一族や藤原一族ももとは武人だからね。菅原家は純粋な文人。ひたすら学究肌。しかし、誰よりも学問に通じてはいても、我欲がないにしても、それでは生き残れないところもあったには違いない。が、道真がそういう人物であったことは政敵たちも理解はしていたのだと思う。だからこそ、彼を貶めた者たちはその罪悪感にさいなまれることになる。

 それは当然、道真の死後、都に宮中に災いが頻発し、皆それを菅公の怨霊のせいだ、雷公のたたりだと畏れたことを指す。そして道真の怨霊を慰め、怒りを鎮めるために天満宮を建立したわけである。科学が発達していない時代のつまらない思いと対処法であるとは言えるのだが、一方で、何事かに対する畏れが確かにあるという意味では、人々の心にはその都度倫理が生まれていたのではないかとも思える。そういうものがなくなったときこそ、詩は完全に滅してしまうのではないか。かつて、日本の律令国家のモデルとなった中国では、政治家や官吏には詩の才能も求められる時代があったが、今はどうか。

 で、日本はどうか。非業の死を遂げた財務局の官吏の御霊が怨霊となって、世に災いをもたらしたり、指示をした上層部やその後ろにいる元政権を祟ったりするというような、そんな考えを持つ人は誰もいない。

 政治の世界では、とうに詩人など無用も無用なのだが、ただし、この詩人ということを学問と言い換えれば、昔はもっと知識と教養が政治家に求められていたはずだ。しかし、「地盤、看板、鞄」と言われて久しく、二世議員の拡大再生産によってそれはますます強化されている。そのような大勢にあって、真面目な人が憂き目を見るという図式は,平安も今も同じかなあと、今さらと思われようが、僕は嘆息してしまう。

 なんで道真を取り上げたのかというと、ひとつは森友事件のむなしさだな。

 もうひとつは自分自身のことだ。

 この一年、なかなか切ない境遇にあって、道真が抱いていた思いというのが少しはわかる感じがしたのである。もちろん、人の情けに触れ、感謝することがとても多いし、こういうこと言うとそれこそ罰が当たるかなあとも思うんだけどね。ま、今年も終わるんで許してください。

 道真は「三友」のひとつしかないと言ったが、僕には「琴(音楽)」といちおう「酒」もある。酒のほうは、手術以後、あまり飲めなくなったけど,音楽によって癒やされることは多いな。やっぱり映画「リスペクト」の影響は多大らしく、僕の友人は次々にアレサのCDを買い、その知人はソウルが好きでもなかったのに、映画を観て19枚セットのCDを買ったという。ま、わかるね。でも、Ⅰ週間くらいしてから決断すべきかも。

 先日は年末恒例のPUS HIMのライブを観に行った。コロナでライブが減ったPUSHIMは喉の調子がよく、声がとてもよく出ていた。圧巻は、このライブで初めて聴けた名曲「レインボウ」。声も出ないくせに、バックコーラスをやりたいと思ってしまった。レゲエにアレンジした松田聖子の「瑠璃色の地球」にもやられたかな。コロナ禍において声が出ない僕は最良の観客となっているようだ。

 というようなポジティブな捉え方もいかようにでもできるのだが、声が出せないことで、できないことがとても多いのは確かなんだよね。人とかかわらなければ、さほどの問題にはならないんだろうけど。でもひとたび冷静に考えれば、可能性がたくさん削がれてしまったと思わざるを得ないかなあ。そんなところが、都から遠くに流され、自分のやりたこともできなくなった道真に共感するところかなあ。

 まあ、しかし、年があければまた気持ちも少しは変わっていくかも。いろいろ楽しみな予定もあるしね。

ということで、また来年。

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