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菅野所長のエッセイ:フットボールの記憶

 うーむ、何も書くことがないなあ。天皇賞は当てたことは当てたが、成果はパッとしなかったし。ただ、疲れたというだけだ。この調子で年末までがんばれるのかいささか不安である。どこか温泉のある病院に入院でもしたいものだ。

 この頃、行き帰りの電車の中ではつねに本を読んでいる。「サッカー戦術の歴史」(筑摩書房 2010)というイギリスのジャーナリストの本なのだが、分厚くて中身が濃くて濃くて、ぼけた頭に入るには一苦労である。でも、これが面白いんだなあ。一回読み終わって、ただちに2回目の読み返しに入っている。電車の中でしか読まない。家で読んでいると、寝るのが遅くなったり、朝に読めば遅刻しちゃうからだ。そのペースだとだいたい、読み終わるまで2週間はかかるな。この本は3回は読まないといけない。

 内容はサッカーの戦術にかんするものなのだが、同時にサッカーの歴史もひじょうによくわかってくる。イギリスで生まれ、世界に広まったこのスポーツが、その土地の文化や風土に応じて多彩な進化を遂げていくプロセスは、ほぼ文化人類学の範ちゅうだ。著者もなかなかの人物で、そこそこに哲学の素養がかいま見える。

 ほとんど本を読まない人間になってしまったけど、やっぱり面白いものはあるんだなと痛感。教えてくれた人には感謝だ。こんなにのめり込んだのは10代以来だ。

 ま、サッカーを二分するヨーロッパと南米の関係だが、簡単に言うと、19世紀、イギリスは海外投資の20%を南米に向けていた。で、多くのイギリス人がブラジルやアルゼンチン、ペルーやウルグアイなどに住んでいたわけだが、そこでサッカーに興じるうちに現地に定着したと。当時、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには45000人のイギリス人がいたという。そんなこと知らなかったもんな。
 大英帝国の没落とともに、イギリスは南米での威光を失うわけだが、彼の地にサッカーだけはしっかりと残った。そして、独自の発展を遂げていくわけである。

 ヨーロッパでももちろんサッカーは広まり、人々を熱狂させるのだが、サッカーがサッカーらしくなっていたのは、母国ではなく、オーストリアやロシアだった。現代につながる戦術、フォーメーションというものが確立されたのは、ディナモ・キエフというチームからではないかと著者は言っている。結局サッカーの母国であるイギリスは、サッカーの進化からつねに後れを取っていくのである。第1回目のW杯に優勝したのが、人口にしたら500万人程度の小国ウルグアイだったのは、それを象徴する出来事だった。

 まったく違うスタイルのサッカーであるヨーロッパと南米、そのどちらが上かを決めようということで、クラブチームの対決が始まる。1960年、インターコンチネンタル杯、ヨーロッパの代表チームと南米の代表チームが世界一をかけて、ホーム&アウェー方式で戦う。その後このホーム&アウェーはいろいろと問題が発生するので、中立国開催で一発勝負にしようとなって、トヨタカップが始まる。それが1980年。東京は国立競技場。

 かたやサッカーの母国イギリスから、創生期からの名門クラブであるノッティンガムフォレスト、かたや第1回W杯の覇者ウルグアイのナシオナル。この本を読んだ今思うと、これはひじょうに象徴的な対戦だったわけだ。

 そして、僕は、国立の片隅からこの歴史的な一戦を観ていたのだった。当時、国立のピッチはひどいもので、しかも冬。芝はほとんどはげ上がり、至る所に砂が入っていて選手には気の毒だった。天気が良かったのが救いだった。

 試合は、まさにウルグアイが残酷な勝ち方。わずかなチャンスを泥棒猫のようにものにして、あとは堅く封じ込めた。国立というサッカーには観戦には不向きな条件もあって、試合自体は面白くはなかったね。でも、この結果自体も象徴的だったのだな。

 試合ではなく、これが世界かと思わせたのは観客だった。たぶん半分かそれ以上は外国人ではなかったか。それが試合が始まる前からいろんな応援をするわけで、日本の盛り上がりに欠けるスタンド風情しか知らない身としてはそっちのほうが面白かった。あれから34年か、ずいぶん前だなあ。

 と、サッカーに興味ない人にはまったくつまらない話だ。すみません。書くことがないもんで。

 

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