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おとなしい熊

 11月も中旬になりなんとしているのに、富士山の雪が溶けてしまっている。火曜日は東京で27,5度と、観測史上11月の最高気温だそうだ。しかし、週末からはぐっと冷え込むということで、一目散に冬に向かっている感じである。年々、秋らしい秋もなく、そして春らしい春もなく、夏と冬だけ、ほぼ二季の国になっていくようである。

 熊の被害が激増しているのも、はやりこうした天候と無関係ではないのだろう。この点から「熊も被害者だ」という多く愛護関係からの言も当然一理ある。東北などでは、キノコ採りなど、人が熊の生活圏に人が入り込んでしまって、それで襲われたという例が多いので、そんなところに行くほうが悪いという意見もある。それはその通りだなあと思う。

 ただし、どんな理由であれ、人間を襲い、あるいは人間を食らった熊を生かしておくのはどうかと思う。やっぱり僕には、熊(やペット)の命よりも人命のほうが大事だという優先順位がある。しかし、それでも、無差別殺人を繰り返した奴の命と、飼い主の心を癒やすペットの命のどっちが大事かなのかは何とも言えないのである。優先順位はあるものの、それは絶対的なものではないのだ。

 そんな僕でも人を襲った熊は殺したほうがいいと思うのは、そうした熊は再び人間を襲う可能性が高いからだ。あるいはそのDNAが拡散することもありえる。

「動物感覚」という本によれば、家畜の性格を穏やかなものにするには世代交代が3回あればいいのだそうだ。攻撃的な個体には繁殖させず、おとなしい個体だけを繁殖させる。それが三代続けば、ひとつの家畜の集団はおとなしくなると。作家で狩猟家の服部文祥さんは,この説を引用しつつ、われわれは昔からの狩猟によって、長い時間をかけて攻撃的な熊を排除し、臆病な熊を増やしていったのではないだろうかと推察している。だから動物愛護団体の人のように「本当は、熊はとても臆病でおとなしいんです」というような発言が出てくるのも、あながち間違いとも言えないのである。

 実際、明治から戦前の昭和に至る北海道でのヒグマの話を読むと、牛馬を襲うのはもちろん、鉄砲を持った人間を見ても逃げるどころか、猛然とかかってきて、逃げても追いかけてかみ殺し,これを食らうという例は少なくない。彼ら猟師は自ら熊の住む中に入って、熊を殺しに行くのだから、逆襲を受けてもしかたないのだが。

 今どきの熊はここまですることはない。多くの悲劇は人間と熊との生活圏の境界で起きており、熊がわざわざ人を襲ってくるということはない。そこまでの危険な熊は現代ではそういない。臆病でなければ生き残れないからだ。北海道を騒がせたOSO18だが、それこそ人間を極度に恐れていたので、なかなか捕まらず、撃たれもしなかったのである。

 そうした臆病であるはずの熊が人里に下りてくるという事態は、やはりかなり緊急の事態であるのだろう。先日北海道で観察された親子グマは、こんな時期なのに痩せ細っていた。彼らは臆病でおとなしいが、しかし、生きるために山から出てこざるを得ないわけである。人を襲ってしまった熊を駆除するのはしかたのないことだと僕は思うが、それでも,彼らの生存権も含めてこの熊問題を考えたほうがいいと思う。ま、言うまでもないことだけど

 そうした見方をしないで、単に熊はどんどん殺してかまわないとなると、イスラエルの首相とあまり変わらなくなるよね。

 ところで、先の服部文祥さんの感覚というのは興味深い。狩りで森に入っていると、自分がどちら側(人間か動物か)の世界にいるのか分からなくなるというのである。そして、文化人類学的な見地から観察されることとして、狩りから帰った猟師は饒舌になるという。

「たしかに、私に猟を教えてくれた年寄りたちも、猟師小屋に帰ってくるとよくしゃべった。もちろん私も気がつくとしゃべっている。もしくは,こんな原稿を書いている。単に獲物話が面白いとからだと思っていた。もともと、言葉や物語というのは,獲物話のために生まれたのではないかと思っていたほどである。だが、この世に戻ってくるためいう指摘を聞いたときには鳥肌が立った」

「人間の言葉をしゃべるとは、人間社会側にいることを確認することでもあるのだ」

 これは、いわゆるデブリーフィングだね。でもこういう心の仕組みそのものよりも、ケモノと人間の関係を考えるに当たって、とてもリアルだなあと感じるのである。

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