ついこの間までは暑い暑いと言っていたわけだが、あっという間に涼しくなってしまった。いや、涼しいと言うよりも若干寒い。近年の日本は、暑いか寒いか、夏か冬かの2シーズン、四季ではなく二季になってきた感がある。そこまで行かなくても、暑くも寒くもない快適な時季がだんだん短くなっているとは思っていた。先週あたりには、それまでタオルケットさえ掛けないで寝ていたのに、それを飛び越えて毛布がちょうど良くなっていた。今週は、掛け布団もあったほうがいいかもと思うくらいである。
で、今秋初めて毛布にくるまって寝たとき、その気持ちよさに陶然となった。そして、まざまざと昔の記憶がよみがえったのである。この話は他でもしてるし、ここでも以前にしてるような気もするのだが、何度話してもいいのでまあいいやとする。
子どもの頃、たぶん10歳くらいだったと思うのだが、授業の課題に「あなたが幸せを感じるのはどんなときか書け」というのがあった。当時の僕はそんなことはあまり考えたこともなかったので何を書いたらいいのか悩んだ。まあ何かを書いて提出したのだが、その中身は気の抜けたサイダーのようなものだと自覚していた。自分としてはまったく納得のいかないものだったのである。
しばらくして、クラスの皆が何を書いたのか、全員ではないが、たぶん主なもの、先生の眼にとまったものが発表された。その中に「あったかい布団の中でぬくぬくしているとき」というのがあった。教室に大きな笑いが起こった。それを書いたのはクラスでもあまり冴えない奴で、まあ元気はそこそこあるのだが、面白い存在でもなく、勉強は全然という、こう言っては何だが、落ちこぼれ的な生徒だった。だから大多数の生徒はそいつを軽く見ているし、そこでの笑いも侮蔑が混じった笑いではあった。担任はその笑いに対してちょっと不快そうな表情を浮かべたが、とくに何も言わずに次のものを紹介していた。
しかし、僕はまったく笑わなかった。笑えなかったと言うべきか。それを聞いて感じたのは、一も二もなく「やられた」だったからである。一口に言えば敗北感である。何で自分はああいう素直で自然なことが書けないのだろうか、いろいろとこねくり回して、模範的な「幸せ観」を書くことはできる、でも、あれはできない。自分には一生かかっても到達できないような境地であるかのように思えた。確かに勉強でも何でも自分はこいつよりもはるかにできる、でも、自分は一生こいつには勝てない、そう思った。それはかなり確信めいたものだった。
この苦い記憶は僕の人生でたびたびよみがえる。そして、あの頃の自分と今の自分がほとんど変わっていないことにも気づかされる。幸せの感じ方。手術後の僕は気持ちとして紆余曲折はあるものの、最終的にはいつも翼をもがれた鳥のような気分になる。命が助かっただけでも幸せであるはずなのにね。あったかい布団で寝られるだけでも幸せであるはずなのにね。資質ということなのか、なかなか難しいのである。