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菊の名前

 ウンベルト・エーコが小説「薔薇の名前」を発表したのは1980年。当時は日本でも”記号”にかんする研究が産声をあげた時期であり、日本記号学会の発足後、第一回大会が早稲田で行われた。僕も興味津々で出かけたのだが、発表内容はひじょうにお寒いものだった。

 しかし、強烈な印象として残ったものがひとつ。大会メインのシンポジウムで、フロアから壇上のシンポジストに痛烈な批判を浴びせる女性がいた。まだ若く、細くて小柄だが闘志あふれる戦士のようだった。およそ心理学の世界ではこういう人はいない。いったいどういう人なんだろうと思ったが、それが上野千鶴子であることを知るのにさほどの時間はかからなかった。

 当時の僕はまだこの仕事でずっとやっていくのかどうか決まっていなかった。心理学よりも人類学や哲学などのほうが面白いし、そして、新たな分野としての記号学や記号論は、あらゆるフィールドを縦断できるものではないかと見ていた。だからそちらの方の見識も深めようとしていた。

 ちなみに僕の最初の学術的な論考のタイトルは「芸術療法の記号論的分析」というものである。しかしながら、当時、恩師を含めて周辺の数人に読んでもらったところ、全員が首をかしげるものだから、お蔵入りせざるを得なかった。同時期に書いていた「クライエントと失語」は日の目を見たので、僕の方向性は自然と記号論ではなく,関係論に移っていった。まあそれが無難だったかもしれない。余談。

 ところで、当時の記号学の世界にあってスターの1人がエーコである。「薔薇の名前」の邦訳はまだだったが、いくつかの著作は日本でも大いに話題になっていた。その「薔薇の名前」が映画化されると聞いて、エーコの書くものが映画として成立するのだろうかと訝ったものだが、主役に老年のショーン・コネリーを得て、世界的に大ヒット。確かにいい映画だとは思うが、エーコは、別に中世キリスト教社会の醜聞を明らかにしたいと考えたわけではなく、作品そのものを迷宮のテクストとして表現したかったのではないかと思う。

 ただし、この映画の社会的な影響は少なからずあったのではないか。2000年代に入って、アメリカのメディアがカトリック教会の深き闇を明るみにさらした。それは、アメリカのみならず、世界中のカトリック教会で聖職者(おもに神父)による性的虐待がはびこっているという事実である。彼らが虐待したのは子どもたちであり、その80%は男の子とされる。

 さて、ジャニーズ問題の前振りが長くなったな。

 先日も2回目の会見が行われたけれども、僕のモヤモヤはいっこうに収まらない。おかしいよなあ。事務所側がズレてるのは、世間知らずの集まりだからある意味しょうがないにしても、メディアや世間一般も何かズレてる。井ノ原が「ルールを守りましょう」と言うと拍手が起こるとか、どっちもおかしい。と思ったら、あらかじめジャニーズシンパのメディアだけに質問させようと企てていたことがばれた。やらせの株主総会みたいなものか。

 やっぱり問題の深刻さがわかってないんじゃないの、と思う。質問は「一社一問」とかね。そんなルールを強要できる立場か? それを受け入れてしまうメディアもおかしいし。

 考えてもみなさい。これがビッグモーター社の会見で「質問は一社一問でお願いします」と言ったら、会場は怒号の嵐でしょ。SNSは大炎上でしょ。

 要するにみんなジャニーズに甘いんだよね。でも、ビッグモーターに劣らずとんでもない会社であることを忘れてはならない。

 とくに大きな問題は、ジャニー喜多川の犯罪を「性加害」という言葉で表現していることではないか。これはいろんな性的虐待の総称なのだろうが、強姦やレイプというのが本質だろう。今は「不同意性交」という用語が正式なものになっている。それを「性加害」とすると、何とも軽く柔らかい犯罪であるかのようにイメージされる。つまり矮小化される。僕は昔から主張しているが、心理学者や教育者側が「いじめ」と表現することで、その犯罪性が矮小化されてしまう。それと同じ。

 しかし、何十年も続いたジャニー喜多川の乱行、狂気。その被害者は500人くらいには及ぶのではないかとも言われている。先述のカトリック教会の調査で明らかになった性的虐待の数は、ひとりの神父で最高でも100数十人だった。ジャニー事件が「人類史上でもまれに見る性的な犯罪」というのは決して大げさなことではないのだ。「タレントに罪はない」とか、言いたいことは分かるけど、事の大きさをもっと考えたほうがいいよね。成功(性交)したタレントたちも、ジャニーズの計り知れない財(罪)も、何百人もの犠牲者たちの上にあるということだ。

 皮肉だ。「せいかがい」を「性加害」に変換しようとすると「聖歌外」となる。

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