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何でも途中

 ゼレンスキーの演説だったが、安倍政権への恨み言は言わなかったねえ。事前に釘を刺されてた可能性もあるだろうが、心情的に訴え共感を呼ぶ方向性が強かったということではあろう。

 ウクライナ情勢は膠着状態と言うのだろうか。長引けば、損害こそ大きいものの、政治的にはウクライナに有利に働くと言われるが、民間人に及ぶ害を考えると痛ましいものがある。

 しかし、ニュースでは若い女性までが銃をとって訓練しているように、国民の士気はなお高い。この間も言ったように、自由は勝ち取るものだという気概があるのだ。日本のように、われわれのように、野放図と自由の区別がつかない人たちではない。ときにゼレンスキーが元コメディアンであり、政治的能力に欠けると揶揄する者もいるけど、そのような人物が大統領にもなる、それが自由な社会というものの何よりの証であることを忘れてはならない。元KGBが大統領になるというのと正反対だな。

 それにしても、21世紀のこの時代、いくつかの大戦や数多くの内戦、あの冷戦を経ても、なおこのような図式が展開されることに、つくづく人間の歩みというのは遅々として進まないものだと思う。また、ロシアの内情を見れば、あのエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」は今なお芯を食っている著作なのかもしれないと思うし、ユダヤ系のドイツ人であったフロムがもし生きていれば、かつてのドイツが今のロシアにぴったりと重なるのではないかとも思う。

 さて、膠着状態と言えば、僕の気管孔もそうだった。再びチューブを装着するようになってもう3ヶ月か。気管孔内の出血が止まらないでいる。すごいものじゃないのだがね。でも、最初の頃に装着したときよりもはるかに長いな。いったいどうなっているのかよくわからないが、このままでは、手術ができないだろう。

 が、こればかりは自助努力でどうにもできない。いちばんいいのは、ひたすら何もしないでいることなのだがそうもいかないしね。

 いろいろ考えたり、試行することで局面を変えられるのはいいことだね。

「奇跡のハヤシライス」を送ってもらって、ハヤシライス問題はかなり解消したのだが、その前はレトルトのハヤシとビーフシチューを混ぜることで、あの九州で食べたハヤシライスに近づこうと試みていた。それは80%位の成功と言える。たぶん混ぜる分量が難しいのだ。しかも、高くつくしね。

 ところが、奄美でカレーも案外大丈夫だということもわかった。が、普通に買うのは怖い。たいてい普通に辛いもんね。で、子ども用ではなくてあまり辛くないカレーというものがあればいいのになあと思ったのだが、そのときひらめいた。そうだプーパッポンがあるじゃないかと。タイの、カニ入りの、卵を混ぜたカレー。あれは大好物だった。タイ料理というと、生春巻きとこれ。調べると、レトルトで2種くらいある。さっそく購入。思ってたよりも辛い。これまでタイ料理店で食べてきたものとちょっと違う感じがする。それから松屋のデパ地下のほうがいいなあ。

 成功も失敗もあるなあ。でも、既存のハヤシにビーフシチューを混ぜるとか、大人と子どものカレーとの間でプーパッポンを思いつくとか、いかにも弁証法的な思考発展という感じがする。

 弁証法とか、なんでこんな昭和な物言いをするのかと言えば、ウクライナのことで、われわれが享受していると思っている平和な社会とか平和な世界とかは、まったくの虚像とまでは言わないが、到達していた地では決してなく、すべてがその途中、途上にあるんだなと思い知らされたからだよね。終わりがあるのは物語の世界だけだ。

 どんなこともすべて途中のこと、そう考えるのは正しいなと思う。たとえば、原発問題ひとつとっても、それはエネルギー政策、エネルギー問題の途中にあるひとつのあり方に過ぎない。最終地ではないということだ。

 たとえば、日本ではまだほとんど需要がないようだが、日本のある企業は、プロペラのない風力発電技術を海外に輸出している。知らなかったなあ。もしあんな大きな場所を取らない風力発電ができれば、もしあんなに場所を取らない太陽光発電ができれば、そうした技術の革新によってエネルギー政策はまた新たな局面を迎えるはずである。でも途中と思わない、思いたくない人たちがいてそれを阻止するわけなんだろうな。そうした精神性が、まさに「自由からの逃走」ということだろうか。

 今週は春のGⅠの口火を切る高松宮杯。絶対王者というのはいない。いちおうレシステンシアを本命としよう。

ここではぞんぶんに「逃走」してほしいと願っているのだが。

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