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ウィル・スミス事件に見るアメリカの影

 リアルタイムでは観てはいなかったが、映像はかなり残っているのでほぼ全容は理解できた。

 アカデミーはスミスを非難し、アメリカ国内でもウィル・スミスの立場はかなり劣勢である。これが日本でのインタビューとなると、ウィル・スミスへの同情票がけっこうある。非難の理由は、理由はともかく、とにかく「暴力は良くない」というものだ。

 いやしかし、なんか変だぞ。日本はいいとして、アメリカでの反応がよくわからん。

 でも、考えていくとわかってくるね。たとえば、今回の出来事の当事者2人のどちらかが白人であったならどうなったか? それを考えれば簡単なことだった。

 もしウィルスミスが白人だったなら、たぶん世の中は拍手喝采に転じる。とくに共和党支持層、トランプ支持層からはね。「立派な男だ」と。世の亭主の鏡だと。これに対してアフリカ系が小さく差別を訴える。

 逆に相手が白人だったら、現状の非難ではとても済まない。共和、トランプ支持層が加わっての罵詈雑言が向けられる。命の危険さえあるだろう。

 今回はアフリカ系同士のことだから、そうした層は関心がないのだ。だから、あまり参戦してこない。それはある意味で幸運なことである。なぜなら、この出来事は、アフリカ系や、アカデミー協会のような民主系支持層にとってはかなり恐れるべき事態であったからだ。

 ここは何としても事を平和裡におさめたい。これ以上アフリカ系のイメージが悪くならないように。アフリカ系はかっとなるとすぐに暴力に訴えると、そういうストーリーはたぶーだ。

 そのためにはデンゼル・ワシントンがそうしたように、スミスの怒りをそれ以上爆発させてはならなかった。われわれは暴力を何よりも嫌い、否定するものであると、アピールしなければならない。

 それはかつてキング牧師が唱え、実行してきたアフリカ系アメリカ人の伝統とも言える戦略であり、生き方なのである。テレビのインタビューで「あれはスミスが悪い」と答えるアフリカ系の人たちの多くは、カメラに写らないところで拳を握りしめているのではないか、インアタビューが済んだ後で血が出るほどに唇を噛んでいるのではないか、僕にはそう思えるのである。

 

 そして、アカデミーもそうだが、アフリカ系の多くはこれを暗黙の了解事項としていると思う。冷静になって、それが理解できたからウィル・スミスも鉾を収めた。非を認めることで多くの人を救うことができる。そのためには妻にはつらい思いをしてもらわなければならないが、当然妻もこの暗黙知を理解している。

 たぶん日本人のほとんどは暴力と侮辱との釣り合いという意味でこの事件をとらえているのだろうが、そんな単純な問題ではないよ、これは。と僕は思うのだ。

 キング牧師の盟友であり、当時キングの次くらいに影響力のあったレヴァレンド・フランクリン牧師、その娘がアレサ・フランクリンである。今回の事件でこういう考えに至ったのも、分厚いアレサ伝「リスペクト」をじっくり読んだ影響があるのかもしれない。父親のことは頻繁に出てくるし、当時の黒人社会のこともわかるし。もちろん、キングもしばしば登場する。

 アレサのことについても、映画「リスペクト」では到底わからないこともあるね。よくこんな本の出版を許したもんだと思うくらい、アレサの破綻した部分が表現されている。要するに、歌では天才だが、他はねということだな。よくある話だが。映画が30歳の教会コンサートで終わった理由もわからないではない。しかし、犯罪を犯すわけでないのだから、まあ許されていいのだろう。

 しっかし、面白いエピソードが多々ある。昔、何枚目かのアルバムを録音しているときに、同じスタジオにまだ若手のエリック・クラプトンが来ていた。アレサ側がこいつにギターで参加させようとなったのだが、アレサのレコーディングということでビビったクラプトンはまるでダメダメな演奏しかできなかった。それでボツとなったわけだが、それがよほど悔しかったのか、翌日、クラプトンは一人でスタジオにやってきて、一人で完璧にギターを弾いたということだ。この人はバディ・ガイの本の中でも傑作なエピソードが出てくるけどね。

 あと一番びっくりしたのは、ビートルズの「レット・イット・ビー」は、当初アレサに提供された曲だったという話だ。ところが、アレサは歌詞の内容がカソリック的だということで、自身の教派パブティストとは相容れないものがあると躊躇したそうだ。そうやっているうちに話は流れてしまった。もしさっさと受け入れていたら、大ヒットを手にしていたのだろうに。サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」をアレサが歌い、それが南アフリカで黒人の賛美歌になったように(この話はかつてBSで特集番組がつくられた)、「レット・イット・ビー」もアレサを代表する曲になった可能性は高い。

 アレサの代表曲のひとつ「ナチュラル・ウーマン」は、キャロル・キングの楽曲だ。キャロル・キングがかの世界的なヒット作「タペストリー」のアルバムライブをハイドパークで行ったとき、娘で歌手のルイス・ゴーフィンも参加している。この間気がついたことには、夫のゴーフィン姓を名乗っているから気づかなかったが、二人の名をくっつけるとルイス・キャロルになるのだ!

 知っている人は知ってるだろうし、有名な話なのかもしれず、何を今さらと馬鹿にされそうだが、自力で気づいたことがとても嬉しかったね。

 さて「ドライブ・マイ・カー」は外国語映画賞。作品賞でなかったのは、やっぱり本国受賞に戻したかったからかなあ。まあ、だからといって濱口映画の価値はまったく下がらない。まったく見事な映画である。村上春樹原作というのも、対外的には好印象を与えるだろうが、映画そのものとは無関係。一軒の家に例えれば、骨組みだけのこと。

 もっとも僕は村上春樹が好きでないのだが、それは彼がビートルズ好きだからかなあと思う。別にビートルズは嫌いではないが、やっぱり断然ストーンズ派なんだよねえ。自分の大事な著作のタイトルに「ノルウェイの森」なんてつけるはずもないもんな。「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」ならいいけど。この分かれ目は大きい。「ドライブ-」の原作も、運転手のみさきはおしゃべりな感じだよ。映画と違って。

 まあそれはいいか。とにかく、北野武がもう映画を撮りそうもないので、これからは濱口竜介の時代だな。これは無双だろう。近年韓国には映画もドラマもまったくかなわないと思っていたが、やっと映像でまったく負けない人が出てきた。やはり例えるならアンゲロプロスではなかろうか。ここでも書いたが、「シテール島への船出」が想起されるよねえ。あの凍えるような寂寥感とは違い、温かい未来を暗示しているけどね。

 気になるのは、「濱口組」みたいなものができちゃうのだろうかということ。というのも、小津安二郎の映画づくりというのはつくづく劇団のようなものだなと思うのである。「麦秋」では、東山千栄子が笠智衆の母親役として登場するが、そのたった2年後の「東京物語」でこの二人は老夫婦役なのである。これって、劇団でよくあることだよね。北野映画も当初はその気配があったが。僕としてはどうかなと思うんだ。

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