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千里の道も

 午後近くになって、点滴も外れ、いよいよ自由な身になってきた。これで、病院も脱走できるな。夕方には競馬新聞を買ってこよう。

 手術の予後を見てもらったが、何だかみんな若い医師で物珍しそうだ。やっぱりあんまりシャント手術をしたことがないのだろうか。その後主治医に病室で発声の訓練の第一回をしたが、まるでうまくいかない。たまに「あーっ」の音が出るが、これが意味を持つ声になるまでがほぼ想像できない。医師は、まだ術後も間もないからと慰めてくれたが、本人も「これでうまくいったと言えるんだろうか?」と思っているのではないだろうか。こういう結果だと、なんとなく、担当した医師も気の毒である。

 とはいえ、ああいうはっきりとした音が出たのは、初めてのことだ。もう1年半、空気音しか出なかったからね。

 昔読んだ吉本隆明「言語にとって美とは何か」では、体系的な言語を持たない、つまり原始人みたいな人が初めて海を見たとき、「うっ」と発したとする。それは言語と言えるのかという問題から始まっている。そのはずだが。もう50年くらい前のことだからなあ。

 この音が出てしばらくして、この本を思い出した。人類が言語を獲得する歴史を,自分は一から始めなくていけないのかなあ。

 とその後、声を出すのはちょっと諦めて競馬をやっていたが、負けてしまったので、再び、戯れに練習してみた。と、どうだろう、今度は「あ、い、う、え、お」が言えた。こうなると立派なヒトの言語である。私の進化はチョー速い。でも、すごい声というか音。ほぼゲップと同じ類いの音だ。人に聞かせたらビビるだろうな。

 この音を出すにはコツがあることもわかる。で、もっと練習すればいいのだが、ちょっと嬉しくてこのコラムを書いている。子どものとき、初めてできた逆上がりはすぐにコツがわかんなくなるので、何回も身体に覚えさせなければならないのになあ。嬉しくて、練習は放っておいて母親に報告にいってしまったようなものかな。

 これを書いているときにお掃除のおばさん(けっこう高齢な)が来たので、この快挙を教えようと思ったが、当然まだ会話はできない。で、「1年半ぶりに声が出た」と電子メモに書いたが、おばさんはそれを拒否気味。見せてもああそうという感じ。ああ、この人は文盲かもしれないと思った。そうだとすれば、悪いことしたなあ。

 さて、またちょっと練習してみようか。入院中にどれくらいできるようになるのかよくわからないけど、コツをつかんでいけばゲップから進化するかもしれない。

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