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真夏の汗

 今回のシャント手術をして変わったことのひとつは、食べ物がよく詰まることだ。とくにパン類がひどい。パンはよく食べるのだが、毎回喉を詰まらせては、嚥下できなくなるので、飲み物で流し込んでいる。けれど、別にパニックにはならない。以前なら大変な出来事だったろうが、食道が気道ではなくなっているので、呼吸困難にはならないからだ。

 よくお正月に老人が餅を詰まらせて死ぬことがあるが、僕の場合はそういう老人の典型的な死に方とは縁がなくなった。良いことなのかどうかはよくわからん。風呂に入っているうちに気持ちが良くなって、うっかり肩まで浸かってしまい、気管孔から浸水してパニックになるようなことが一方であるんでね。最近は警戒を怠らないのでほぼないけど。それはそれでお風呂の大事な意味を失ってしまったので悲しい。

 前回書いたホテルの忘れ物の件だが、その後なんとかホテルの予約フォームを見つけて、そこから連絡を取った。すると忘れ物は靴下だったことがわかった。やっぱりねえ、大事なものじゃないと分かってはいたけど。靴下かあ。

 忘れ物をしてもまったく連絡をしないホテルもあれば、靴下ひとつでわざわざ連絡してくれるこんな親切なホテルもある。で、丁重に処分をお願いした。

 こんな簡単なことも、メールで何回もやりとりしなければならないのがつらいところだが、それでも、今がメールの時代、SNSの時代であることはとても幸運だよね。考えてみれば、ありがたいことこの上ないな。

 これがもっとも昔だったら、社会的な死を与えられてしまうのではないかとまで想像してしまう。「死」とはいかにも大げさだとしても、社会的な弱者であることは今の比ではないだろう。

 先日は、声を失ってから気持ち的には一番のピンチ、つまりいちばん焦ったと思えることがあった。

 火曜日、東京は35度を超えものすごく暑い日で、病院に行く日だ。その帰り、スーパーのレジ袋をぶら下げながら駅から歩くのだが、もうほんとに暑い。買い物なんかするんじゃなかったと後悔しつつ、交差点の信号待ちになったところで、バランスを崩してよろけてしまい、後ろの花壇の縁に倒れてしまった。そんな大事ではないことは自分で分かっていたが、暑さでちょっとクラッときたのかもしれない。で、起き上がろうと思ったのだが、重いレジ袋が邪魔してまたちょっとよろけてしまった。

 その様子を見て、1人の女性が自転車から降りて助けに来てくれた。ほんとに心配するようなことは全然ないのだが、「大丈夫ですか?」の問いかけに、僕はすぐに応える術がない。片手はレジ袋で塞がっているし、気管孔に装着する器具はよく外れるので、歩くときには着けていないし。左手をたくさん横に振って大丈夫のサインを送ったのだが、どうもそれが届いていないようなので、咄嗟に指で気管孔を塞ぎ、声を出そうとしたのだが、左手だし、そもそもそんな緊急時にうまくいくはずもなく、ただ「プシュー、プシュー」という情けない音が出ただけだった。

 たぶんそんな僕の異様な反応は、この親切な女性(たぶん30台半ばくらい)を不安にさせてしまったのではないかと思う。「大丈夫ですか?」は「救急車呼びましょうか?」に変わり、ポケットからスマホを取り出した。いやいや救急車なんか呼ばれたら大変だと、女性に手のひらを向け「ちょっと待って」のサイン。もうしかたないから、レジ袋も道路において、サコッシュから電子メモ帳を取り出し、「大丈夫です。どうもありがとう」と書いて読んでもらう。女性はとても怪訝そうというか、とても心配そうだったが、最後に「私は声が出せませんので、ご心配をおかけしました」と書いて渡すとさすがに「そうなんですかあ」と得心した様子である。ここまで来ると僕も安心。

 しかし、気づけば、顔面は汗がダラダラ。これは猛暑のせいだけではないな。

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