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後ろ姿

 いままで僕が気管孔に挿入してきたチューブはは、正式には「ラリボタン」という名称の器具らしい。このラリボタンは、当初幅12ミリだったが、それだと緩いのでさっき16ミリのものに替えた。すると、空気が漏れにくくなったのでより声を出しやすくなったのではないかと思う。

 ただひとつ問題が。

今まで空いていた同室のベッドに新患が到着。部屋で練習するのも遠慮となった。まあしかたない。ここではコツや基本をつかんで退院後にがんばるか。さらに太い18ミリというのもあるらしいし、見通しはほの明るい。

 

 で、何もしない時間は読書である。今回3冊の本を持ってきているのだが、2冊はキリスト教関連のものだ。まさか自分がそういうものを読むなんてねえ。そのうちの一冊は昔からのお気に入り「うしろ姿のイエス」というものだ。初版が1981年。40年前かあ。僕がどこかの古本屋で買ったのはそれから5年は後のことだな。当時は別にキリスト教に関心がなかったのだが、題名に惹かれてしまったのである。それはヨハネ福音書にある、イエスの姿である。

 姦淫の現場で捕まえられた女が、イエスの前に引き出された。

「モーゼは律法の中でこういう女は石で打ち殺せと言っていますが、あなたはどう思いますか?」

人々にそう問われたイエスは、何も答えなかった。

「しかし、イエスは身をかがめて、地面に何かを書いておられた」

 そうやって黙って背中を見せているイエスの姿に心を捉えられたのが、作者である前島誠先生である。

この本は「うしろ姿のイエス」に魅入られ、そこにある何の飾りもないイエスの真実に迫るべく、エルサレムからギリシア、アラビアなどを旅する、真面目で静謐ではあるが、情熱的で人間くさい信仰者前島誠自身の本でもある。とかく宗教ものは過度な傾倒があったりして、それが嫌なのだがこの本にはそれがない。

 さてイエスはしばらくの沈黙の後に口を開く。これがあの名言だ。

「あなた方の中で、罪を犯していない者だけがこの女に石を投げつけるがよい」

 これを聞いた群衆は、一人減り二人減り、やがてイエスとその女以外、誰もいなくなった。

 ヨハネ福音書のこの下りはあまりにも有名だが、前島先生は背中を見せてかがんでいるイエスにフォーカスを当てたわけである。僕としては、地面に何を書いていたかのほうもかなり気になるのだ、まあそれはいい。本日のテーマは背中だ。

「俺の背中を見て学べ」なんてことが言われることがあって、今では、それは古すぎる師弟関係のようなものだという空気ではあろうが、実は僕はそう思っていない。前島先生も本の中で言っているが、背中は別に何かを語るわけではない。何を語っているのかは、読み取る側の問題である。

 この原理は以前から僕が言っているように(受け売りだけど)、教えるという行為は、学ぶ側に決定的に依存しているということを指す。教える側がいくら有能であっての、情熱があっても、学ぶ側に学ぶ意欲がなければどうにもならない。

 「背中」が意味するのはそういうことだ。で、前島先生は、聖書の教えでもなく、誰かの解釈でもなく、何も語らないイエスの後ろ姿を追いかけるのである。自分で考え,自分で答えを見つける、この業界でただひたすらそうやってきた僕としてはお気に入りの本になるのも当然だったな。

 僕よりも20歳も年長。まだご存命ではないのか。

 ちなみに僕が人を教えるのは嫌だなあと思っているのは、古くはこの本の影響かもしれない。それから背中を見ろとも言わない。大層なものは何も背負ってないからね。

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