菅野所長のエッセイ:公私の区別

 明日から毎年恒例のゴルフに出かけるのでコラムは今日書いておきます。
楽しみではあるのだが、身体が持つか心配で。

 サッカー、やっぱりダメだったなあ。カナダ戦のダメダメぶりを観て、こりゃ危ないと思ったら案の定だった。それでも、前半など内容はカナダ戦よりもよかったようだし(チラッとしか観てない)、ヨルダンの必死さに負けたということか。必死さということではのんびりした日本人はたいていの国に敵わない。ま、僕は日本人のそういうところが嫌いじゃないのだが。

 ああそうだ、柔道連の会見とか呆れるばかりだね。訴えた15人がいまだに匿名を護るのもよくわかる。体質というやつだね。体質というのはどうしようもないところがあるな。

 そこでまた体罰問題にかんしてだが、石原慎太郎とか橋下徹とか、楽天の星野とか、支持派、擁護派の人というのは、体質的に公私を区別できない人たちではないのかという仮説をここへきて僕は立てている。だって、みんなそういう問題を起こしてるでしょ。

 つまり、暴力をふるうときの彼らは、生徒や部下や子どもに愛情を持っているわけではなくて、私情にかられているに過ぎないのだろうと思う。ハラスメントも同様で。公私の区別、つまりそこでの自分の役割という意識がある人間は、その役割のほうを重んじるだろう。暴力に訴えるのは、その役割を自ら打ち破ってしまうしまうわけで、しかもそれは別に意図してやるわけではない。カッとなって、その激情に身を任せてしまうからだ。
 こういう人たちは、結局公私の区別がつかない人たちと解釈することができる。だから、不正とかしても何とも思わないところがあるのかもしれない。暴力やハラスメントが容認され黙認されている文化とは、不正を生み出しやすい文化でもあるのではないか? これが僕の最近生まれた仮説だが、もう確信に近いな。そういう集団や組織は結局生産性が高くなるはずもないわけで、近年の日本柔道のていたらくもうなづけるところである。

 オリンピック開催国としてイスタンブールの評判がいいみたいなので僕は少し安心してきた。東京も最近では支持が70%超えたというが、僕はやる必要などないと思ってるものだから。そんなお金があるんなら他のことに使ったほうがいいぜ。

 イスタンブールでは、何でもヨーロッパ大陸とアジア大陸をつなぐ橋があって、そこをマラソンコースにする計画があるというが、実に壮大でいいよね。あと、開会式などやるメインスタジアムはは50万人(!)規模だとか。国民の支持はもちろん高いし、初のイスラム圏だし、イスタンブールでやるしかないでしょ。元知事の私欲に乗っかっちゃいけないぜ。

 

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