子どもの頃、初めてテレビが家に来たのは大きな事件だった。近所の人が見学に来たほどだ。ちょっと前には僕も近所の家に見学に行っている。それくらい珍しい新奇なことだったのだ。(一応これは、都下ではあるが、昭和30年代東京でのことです) 僕の家はまったく金持ちではなかったけれど、父親が電気会社に勤めていたので、こうした家電が家に来るのが早かった。テレビもそうだが、ステレオもそうだった。
テレビでこうなのだから、電気の灯が初めてともったときは大変な騒ぎだったと想像がつく。もう本当にお祭り騒ぎだったらしい。まさに「文明の光」だったのだ。
それまではすべて火であったからね。松明、ろうそく、ランプ、時代とともに便利、効率的にはなっていったが、すべて木か油を燃やさなければならない。電気が新しいエネルギーとなる前には、火力の資源は樹木であったから、とにかく山の木という木が伐採された。その結果、日本中がハゲ山となっていったらしい。僕は確認していないが、江戸時代の浮世絵に描かれる山々は多くがハゲ山だということだ。昔は植林などしないからね。
日本で初めて街灯に試験点灯されたのは、明治15年、場所は銀座だった。その後日本中に電信柱が立ち、送電網は広がっていくのだが、昭和、戦後になっても電気が通じていない地域もかなりあった。昭和36年、京都府桑田郡の90戸ほどの地域に電気が送られたのだが、ここが未点灯地域としては最大であったらしい。つまり、それ以下の人口や戸数のところはまだまだ「文明の光」は届いていなかったわけである。同じ頃、僕の家にはテレビが届いたのに、およそ80年の月日が流れても電気が届かない事情、この大きな隔たりとは何だったのだろうか。
もちろん、辺境、秘境のようなところに電気を送るのはたいへんなことである。しかし、そうした地勢上の理由からくる工事の困難といった理由だけなのだろうか。電気事業の歴史を探ってみると、その辺の事情、われわれがまったく知り得なかった事情が分かってくる。
主なネタ本は田中聡「電気は誰のものか」(晶文社)である。この本を読むと、日本の電気事業においての民営と公営の問題が浮き彫りとなる。
銀座で初めて試験点灯が行われ、これからは電気の時代だということは誰の目にも明らかとなった。それではこれをどう普及していくのか、国は基本的に民営を選択、事業者を次々と公認していったようである。当時は「電灯会社」と呼ばれた。
しかしながら、例外もある。契約の条件の中に、「国や行政が事業の権利を望む場合にはこれを拒否できない」と明記されている。完全な民営独占ではないのである。この一文を頼りに、多くの村や町が、自分たちの手で電気を管理運営したいと申請した。受理される場合もあるし、そうでない場合もある。受理されないのは、事業者による妨害があったからである。全国各地で電気会社と地方行政体との争い、いざこざ、戦いが起きた。「電気は誰のものか」はその事件史と言ってよい。
公営か民営かについては、どちらがいいのかは何とも言えないところがある。日本においてはJRと郵便事業はあきらかに民営化してよかったと思えるが、さて電気はどうなのか。
多くの村が自分たちでやりたいと思う理由のひとつは、民営だと過疎の地域などは後回しにされるからである。(だから最初の東京五輪の頃にさえ未灯の地域があった)村というひとつの単位であれば、みな平等に公平に電気の恩恵にあずかりたいわけである。
また、事業者たちが自分たちでやりたいのは、ひとえに「電気は儲かる」からであり、それは水などと同じで生きる上で必要不可欠なものとなるというかなり確かな読みがあるからだ。そして、その利益は村には決して還元されない。
しかし、自分たちがやれば同じように利益が出る。そして、それは村の予算に組み込むことができるのである。となれば、これは公営のほうがはるかに理想的な社会に向かう道筋ではないかと思ってしまう。
電気という、利を生むことが確実なものを巡ってこれを自由化すれば、そこに争いが起こるのは当然の成り行きかもしれない。しかし、肝心の国のほうは、基本普及さえすれば良いという立場のようで、この争いについてはあまり介入はしなかったようである。そんな中、電気会社のほうでは、官憲、政治家を味方につけたりもして自分たちの事業を広げていった。そうしたさまざまな難関があったにもかかわらず、昭和10年で公営電気は全国で123事業に及んでいた。
しかしながら自体はあっという間に決着を見る。その後戦時体制が強まる中で、電気を国営にしようという気運が高まっていくのである。そして昭和17年、電気は国家が統制することになり、発電と送電は1社に、配電は、各地の配電会社9社に委ねることとなった。各地の公営事業もすべてこれに統合された。20年近くも国と交渉して権利を得た村もあったが、すべて幕を閉じた。電気という、なくてはならないものの自治の夢はここに潰えた。
この結果、国営とは言えず、国に託された民営会社が電気事業を司るという、現在と同じ体制ができあがったのである。
日本の電気事業の問題は、これがはなから「電気は儲かる」という動機から始まった民営によるものだからではないか。電力会社は電気料金を値上げさえすれば赤字は出さず、儲かる仕組みとなっている。そして、水と同じで、われわれは「止めてもいい」とは言えないのである。税金と同じ。国も必ず守るしね。今のままだと、今後もずっと良くないことが続くのでないかな。
亡くなった俳優西田敏行が昔言ってたよね。「福島を汚したのは誰だ!」
僕も言っておこうか。「珠洲の町を斜めにしてるのは誰だ!」