今年の夏もまた熊による被害が相次いでいる。北海道の道路脇でヒグマが鹿を襲っている映像があったが、あの道は標津方面から羅臼に向かう国道であり、7月に僕たちが通った道である。また羅臼岳の目の前にある展望駐車場からは、その登山道もよく見える。あそこで登山者が熊に襲われるとはね。
北海道ばかりでなく、熊のこのような出没は全国的だ。みなこれまでは現れなかった場所に現れるようになっている。これが何を意味するか。各地で人を怖れない熊が増えているということだ。
以前ここでも説明したが、熊の被害が大したことない頃というのは、つまりは熊が人間を怖れ、警戒し、人里には近づかなかったということである。以前の熊の被害とは、山菜やキノコ採りで熊に出くわすというのがほとんどだった。これらは人間のほうが熊の生息地を侵したということであり、事故でもあった。
しかし、自然保護政策が進んでいくうちに熊の個体数はどんどん増えていった。個体数が伸びずに、人を怖れる熊が交配を繰り返し繁殖していった時代はよかったが、年月が進み、熊は増えることによってその効果は薄れていったのではないか。ここ数年、人を怖れない熊が全国的に増加しているのは、どこの地域でも個体数が増え、何代もの交配繁殖が進んだためではないかと考えられるのである。
一度こうなってしまうと、原理的に元には戻らない。人を怖れない熊が交配する機会が増え、結果、そのDNAがどんどん拡散されていく。放っておけば、来年も再来年も、更に熊たちは人間に近づいてくるだろう。人里に下りれば、スイカもメロンもトウモロコシも食べ尽くせないほどある。そして、かつて北海道に「人食い熊」がいたように、鹿なんかよりも楽に襲える人間が狙われる可能性も高くなるだろう。
駆除せずに山へ返せばいいという意見について、それも一理あると僕は思っている。しかし、僕もそうであるように、われわれは熊が人を怖れるという平和な時代しか知らなかったのである。そんな心優しい熊はどんどん減少していること、人肉の味を覚えた熊は再犯することを考えないとね。そしてもうひとつ、そのようなことを言う人たちは、熊に殺された人と自分は無関係だと思っているのだろう。羅臼で熊に食い殺された人が自分の息子だったら、友人だったら、どう思うんだろうか。人が死ぬことよりも熊が死ぬことのほうに感情が揺れるとすれば、やはりどこかおかしいよね。こういう人は都会に住むよりも、知床や羅臼の山里に住むほうが向いているんじゃないだろうか。
僕も平和な時代しか知らなかった人間だから、熊を駆除するということには心が痛むところはある。でも、放っておけば明治時代のように、人を襲う熊が増えていくのは確実なのだ。根絶やしにしろというのではない。人を怖れない熊は駆除し、そのDNAを拡散させないこと、減らすことである。これがある程度達成できれば、ふたたび「平和」な時代がやってくるのである。
でもそれにしても時間がかかるよなあ、たぶん。何しろ範囲が広すぎる。北海道だけでも、札幌市内のようなところから知床のようなとこまで、それぞれに行政の考え方もあるし、条例もまちまちだ。とりあえず、どこかが率先して駆除を強化し、その効果を見計らってから後に続くというところか。秋田なんかもちょっと急がないとやばいのではないか。とにかく、リスク管理の意識を強く持たないと事態はなかなか改善しないと思うのだが。
一方、本物の熊じゃなくて、熊猫(パンダ)。パンダの町として知られる和歌山の白浜なんかも、リスク意識が低すぎたのが今回の敗因じゃないかと言われているよね。4頭残ったパンダも、今年全部中国に返還となった。今年返還するのは中国との約束ではあったけれども、行政がもっと考えれば何とかなったんじゃないかとも言われている。少なくとも、何頭か残してもらうために努力したとは思えない。と言うのも、現在の町長はものすごい台湾びいきとして知られているからだ。そりゃマズいでしょ、パンダの町の長としては。
でも、それを選んだのは町民なんだがね。パンダ依存で麻痺してたのか、みんながみんな、やがてくるであろう苦境への管理意識が足りなかったようだ。