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文豪と鐘

 7月になったと言っても「いよいよ夏だな」とか思わないね。6月が暑すぎで、しかも空梅雨だったからな。

 先日は、寝苦しかったからか夜中に目覚めてしまった。たぶん4時くらいではなかったか。そのときは夢を見ていた。何人かで飲み会をやっていた。場所はたぶん仕事場の近くだ。で、次は予定の時間に起きたのだが、身体の調子がとても悪い。何となく気持ち悪いし。で、昨日飲み過ぎたからかなと思ったが、いやいやあれは夢だったじゃないかとすぐに気づいた。ボケてはいないと確認できたな。

 それにしても身体が痛い。風邪を引いたときの痛みみたいな。坐骨神経痛だと腰から下が痛いのだが、それとは逆に腰から上、とりわけ背中が痛い。いったい何が起こっているのか? 見当がつかないけれど、結局、原因はこの暑さにあるんだろうと思った。自慢じゃないが暑さには弱い。寒いのは大丈夫なんだけどね。やっぱり、ルーツが東北なのと、冬に生まれているからなのか。

 ま、半日したら回復したので大したものではなかったのだが、週の始まりとしては良いものではない。これからもっと暑くなるから、ちょっと心配だ。

 なでしこジャパンが、予想通りスペインに惨敗。長谷川抜きではどうしようもないけどね。スペインも大エースのボンマティが欠場だったが、比重からしたら長谷川のほうが大きい。でも、熊谷が先発でキャプテンだと。北川が怪我で退場し、その代わりが宝田だと。こりゃ、ニールセンが監督でいる限りは、ちょっとダメかなと思わざるを得ない。デンマークとかスイスの監督経験から、デフェンダーは身体の大きさ優先ということなんだろう。結果、鈍重な選手が愛好されてしまう。

 男子もそうだけど、オシムさん以外、日本の良さを引き出すような外国人監督はいないね。日本人の特異性が分かってないんだよね。だから、Jリーグの監督経験がある人のほうがいいかもね。

 

 

 鹿児島と奄美大島との間、トカラ列島の地震が止まらない。これも心配だなあ。奄美本島には友人がいるし、トカラ列島の真ん中にある諏訪之瀬島は、僕が若い頃にリサーチのため3ヶ月ほど住んだところだ。諏訪之瀬島の御岳は噴火が頻発する活火山で、僕がいた頃も何回も噴火音を聞いている。この列島は霧島まで続く火山列島であり、鹿児島の新燃岳も今回の地震に呼応するように噴火が頻発している。ちなみに諏訪瀬島での大きな噴火は1800年代にさかのぼる。何ていうか、不安が高まるけれども、明確な予想などできずに、気象庁も手をこまねくしかないようだ。

 ちなみに、7月5日に大災害が起こるという噂で、外国人観光客が減ってる感じだよね。電車が空いてるし。ああいうのを信じるのはやっぱりアジア人だろうがね。インバウンドの割合はアジア人が圧倒的であるから、しばらくは観光地も平穏かもしれない。この隙にまた上野に行ってみようか。

 上野に行くのは、やっぱり寛永寺の鐘を聴いておこうかということと、国立博物館に所蔵されている梵鐘を観たいと思っているからである。というのも、その後鐘について調べてみると、予想をはるかに超えて面白いことが分かってきたのだ。その前にちょっと二人の文豪の話を。

 上野公園の中には小さな野球場がある。その名も「正岡子規記念球場」。この間行ったときに、そういえば前にも確認したことがあると思い出した。明治時代、アメリカのベースボールを「野球」と訳したのが正岡子規である。直訳するなら「塁球」だろうに。なぜ「野球」? 先日大谷へのデッドボールをめぐってアメリカの野球界が紛糾したけれど、ああやって報復するのが当たり前のアメリカであるならば、「野球」の「野」とは、「野蛮」の「野」であるのかもしれないなと思った。そんなことを、当時の正岡が考えたとは思えないが、今なら分からんよね。まあ、当時の日本には整備された球場などなく、「野原」のようなところでやっていたからなのだろうが。

 ところで、この正岡子規は漱石と東大の同級生、親交も深かった。そもそも「漱石」は、正岡子規の学生時代のペンネームであり、それを譲り受けて、夏目金之助は「夏目漱石」と名乗ったのである。

 漱石が教師として松山にいた頃、一時期子規と同居もしていた。というよりも、子規はこの松山の生まれなのである。だから、漱石が松山に赴任したのも偶然とは言いがたい。

 俳人として名高い子規に影響され、漱石も俳句に親しみ、何と2600もの句を詠んでいる。

鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺

 これは鐘が登場する漱石の句である。28歳、松山の赴任時に詠んだ句である。しかし、鐘と言えば、日本でいちばん有名なのがこれ。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 子規の代表的な俳句だ。漱石の句の2ヶ月後にできたこの句は、漱石へのオマージュだったとされている。そして、実際には法隆寺の鐘ではなく、東大寺のものだろうというのが専門家の解釈である。漱石の句に対するオマージュを意図したからこそ、人為的なものになったのではないか。実は僕はこの句が好きではない。何というか、芭蕉とはもっとも遠いところにあるような、まあ、蕪村とか一茶のような感じというか、川柳の原型みたいな感じというか、それはそれでいいのだが。でも、その背景を知っていくと、そういう作られ感が自分は嫌だったのだなと分かってきた。

 ということで、漱石と子規、二人の句にも鐘の音、鐘の声が登場する。彼らの時代には、日本のどこにいても、今よりもはるかに鐘の音が鳴り響いていたことは確かである。なぜなら、第二次世界大戦下の日本では、武器製造のためにありとあらゆる金属の供出が求められ、日本の寺の梵鐘はその90%が溶かされてしまったのである。残念なことだ。

 しかしながら、10%が残ったというのも奇跡的なことではある。そこには鐘の調査と研究に一生を捧げた市井の研究者の存在があった。僕も驚愕したこの人物について次回語ろう。

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