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ユージン・ワイラーに捧ぐ-平和の礎石終章

 前半はサッカー話に興じてますので,興味ない方は飛ばしましょう。

 この10日間は、なでしこジャパンのアメリカ遠征、アメリカだけとの3連戦である。こういうのはとても珍しい。まるで合同合宿みたいな企画ですばらしいな。どちらも自軍の戦力と現在地を測ることができる。アメリカにとってもだが、戦力も現在地も不安定な日本にとってかなり有益だね。

 両軍ベストメンバーを揃えた初戦は1-2で負けたものの、両軍2軍メンバーとなった2戦目は1-0の勝利。2戦とも内容的には相手が押してはいたけどね。でも現在世界ナンバーワンとの呼び声も高いアメリカだし、アウェーだし、それはしかたない。

 ニールセン監督がいなくなって、サッカー自体が変わったね。もちろん良くなった。長谷川を守備的なボランチとし、谷川を前目の中盤に置く。そして松窪のワントップ。これを観たかったのだ。

 ニールセンが愚かだったのは、長谷川を攻撃的なMFとしたことだ。それは前任の池田も同じだったのだが、断然の技術を持つ長谷川ならばいろいろ何とかしてくれると期待してしまうのである。その気持ちはわかるが、長谷川は残念なほどに得点能力がない。だから、エリア内で彼女にチャンスボールが来ても点にはならないことがほとんどだ。それどころか、そこでターンオーバーされた場合、長谷川抜きの守備陣となり、チームにとって最大のピンチになってしまう。

 マンチェスター・シティでも当初は攻撃参加が多かった。どこの監督も彼女の技術を見てしまうと、前線に送り出したくなるのである。ましてやウェストハム時代の女王様ぶりを見ているからね。彼女が前線に参加すれば、無尽蔵にチャンスを作り出してくれ、技ありのゴールも決めてくれるだろうと思ってしまう。

 しかし、実は守備的なボランチこそが彼女の良さを最大に生かすポジションなのである。それに気づいた前監督のテーラーは聡明だった。長谷川をアンカーと言ってもいいくらい後ろ目において、彼女からビルドアップが始まるようなシステムに変えた。すると、もともと強かったマン・Cではあるが、長谷川中心のチームであることが明確になり、さらに洗練された強いチームに変貌していった。ニールセンはそれを見ていたはずだったのにねえ、やっぱりサッカーIQが低いのかな。

 今回の遠征初戦は負けたとは言え、アンラッキーな失点だった。Ⅰ点目はたまたまだし、2点目は例によって高橋がやらかしたものである。もっとも日本の得点もラッキーな感じだったので、そこは痛み分け。しかし、思っていた以上にアメリカとの力差がないことが見て取れた。これは想定以上。うれしい誤算である。やはり、ベストな人選をすれば世界のトップとも渡り合えるのである。アジアカップ、オーストラリアとの決勝だって、あんな辛勝のはずはなく、3-0くらいでは勝っていたことだろう。

 そう思って2戦目を観ていたら、”二軍落ち”して不満そうだった浜野がまたもやゴラッソ。ロッドマンなどⅠ軍のメンバーに入れ替わったアメリカの猛攻をしのいで、Ⅰ点を守り切って勝った。しかも、最終的に日本も長谷川や谷川、藤野などを投入すると、アメリカはすっかり攻め手を失い、試合を投げていたね。

 おそらく、18日の3戦目は両軍ともベストメンバーだろう。今度はアメリカを粉砕するような試合をして欲しいと思うのだがね。でもDF陣が古賀以外はアジアレベルだからなあ。粉砕される可能性もあるんだよね。

さて、本題に移ろう。

 11日、上海で日中合同の成人式が行われ、両国から約100人の学生が参加したという。恒例のものらしいのだが、日中関係が冷え込む中でも,こうした文化的な交流は途絶えないのだなと思う。そう考えると、友好都市関係についてもよほどのことがない限りは継続されるものなのだろう。目的意識に違いはあるにせよ、自国中心であるにせよ、中国はそういうことには熱心なのである。

 政治とはあまり関係のない交流と言えば、先日高市首相が来日中のロックバンド、ディープ・パープルのメンバーと歓談してニコニコしてた。よくは知らないが、学生時代ドラムをやっていたということで、パープルのドラマーであるイアン・ペイスは「神」なのだそうだ。まあしかし、どの程度の腕前なのか? ”BURN”のドラミングを完コピしたとか? まさかね。

 でも、ディープ・パープルクラスなら、一国の首相などよりはるかに偉いわけだから、「神」と崇められてもおかしくはない。政治家の栄華などほんの数年だが、かたや50年以上の人気者だもんね、

 昔、R・ストーンズのライブ映画「シャイン・ア・ライト」では、当時アメリカ大統領だったクリントン夫妻がメンバーを表敬訪問しているシーンがある。しかし、ヒラリー・クリントンの母親がなかなか来ないので、挨拶がなかなか始まらないでいた。するとヒラリーがおおいに焦りつつも、冗談めかしてこう言うのである。

「ママったら、ストーンズを待たせてる!」

ほんと、ストーンズを待たせるなんて、どれほど偉いのか。この映画、このシーンが一番ウケたね。

 それにしても、クリントンといい、高市といい、一国のトップが政治を離れてこのような交流をしてる姿には好感が持てる。さて、話を戻そう。

 世界のどこでも、大きな都市は姉妹都市をいくつも持っている。しかし、その数は7~8といったところだ。日本では、東京が12、京都で9だ。しかし、中国の場合、上海で74、北京は284もの友好都市関係を結んでいるのである。 ワオ、なんてことか。

 そういうのは多ければいいってもんじゃないと考えるのが日本人であり、世界の平均的な認識だろうが、どっこい中国は違うのである。「北京は世界一の都市である、中国は世界一他国との友好を大事に思う国である、なぜならー」となる訳である。

 質より量を重んじるんだね。やっぱり。

 中国がいつ頃からそういう考えになったのかは知らないが、たぶん昔からだと思う。それはたとえば、万里の長城に行ってみれば理解できるだろう。人間というのは、こんな馬鹿馬鹿しいことにエネルギーを注ぐのかと思ったね。この場合の「人間」とは中国人に他ならない。ついでに「開いた口が塞がらない」という感覚も分かった。

 ただし、そんなふうな自国中心のありかた,考え方は、中国固有のものでもない。かつては世界のどの国もそうだったろう。けれども、歴史の変遷の中で、より広い世界を知るにつれて、自己中心的な構えも相対的なものになっていく。たとえば世界的な温暖化に対しては、世界がひとつになって対策を講じなければならないというような考え方にもなっていく。現在そこに協力しない国の代表が中国とロシア、そしてアメリカというわけだが、いずれも、共産党、プーチン、トランプによる独裁的な政治が行われているからということになろう。彼らは自己を相対化することができないままなのである。トランプも勇気を出して、テーラー・スイフトを表敬訪問でもしたらどうか。レディガガでも可。

 たとえば、中国以外のアジア圏では「アジア人」という感覚があるんじゃないかね。まあ、無理矢理アジア圏にされているオーストラリアとか、一部の中東は別にして、中国以外の東アジア、東南アジアにはあるんじゃないかなあと思うんだよね。一言で言うと「僕たち、同じアジアだよね」にくくられる感覚。アジアの中の一国だと。

 一方で、ヨーロッパはどうなのだろう? 彼らには「ヨーロッパ人」なんて概念はないよね。あんなに狭いエリアに多数の国が集中しているにもかかわらずだ。

 昔から戦ってばかりだからな。とくに強国と目されるフランスとドイツは歴史的にいつも争っていた。この2国がいがみあっていては「ヨーロッパはひとう」なんてことには到底ならないわけである。

 けれども、周知のように現在では28カ国(イギリス抜きで27)が連合し、貨幣まで共有した、EUという共栄圏を築いている。なぜこんなことが実現したのか? できたのか? 日本人にはなかなか理解できないわけだが、実はEUの成り立ちには姉妹都市の発想が大きくかかわっていたようである。もちろん僕も何も知らなかったのだが、知ってみると、これはすごい話、不可能と思えることを実現する、すごい話なのだ。

 第二次大戦後、ヨーロッパでは、敵対した国同士の和解を図ろうとさまざまな試みが成されたという。そのひとつが姉妹都市の提携を結び、市民同士の交流を進めようというものだった。 これは政府主導ではなく、民間によるものだった。それを成しえたのは、スイスの著述家ユージン・ワイラーという人物である。彼は敵国だったドイツとフランスの市長を一同に集めて話合いの機会を設けるという画期的なアイデアを思いついた。

 1947年、戦争終結の2年目、ワイラーは、ベルリンで両国の市長が参加する会議を企画した。しかし、失敗。フランスの市長が欠席したのである。敗戦国であるドイツは一刻も早く和解をしたかったのであろうが、フランス側のわだかまりは強硬だった。しかし、ワイラーはあきらめない。翌1948年、ジュネーブで独仏15の市長を集めることに成功する。

 その際、ワイラーは、戦争のことなどは話題に上げず、「ヨーロッパ人とは何か」ということを会議のメインテーマとした。これがすごい。著述家としても相当に優秀で、志も高いのだろうと察する。このようなテーマを掲げて、ただ和解することでなく、ヨーロッパの将来像というものを見据えようというわけである。すなわち、このときすでにEUの基本構想が練り込まれてもいたのではないかと思う。この会議でワイラーは「フランス人、ドイツ人としてとらえるのではなく、ヨーロッパ人としてお互いを考えたい」と発言している。

 ワイラーの尽力は続く。1949年には独仏合わせて24名の市長が参加、翌50年には48名の参加となった。そして、両国の政府もこの会議の動きに呼応した。その結果、独仏の相互理解を核としつつ、全ヨーロッパに向けての市長同盟が発足することになったのである。ワイラーの構想は決して夢想ではなく、徐々に実を結んでいった。51年にはスイス、52年はオーストリア開催となり、独仏の姉妹都市関係をモデルとして、やがてヨーロッパ中に姉妹都市が生まれていくのである。

 EUが発足するのはそこから約40年後か。それにしても、こんな壮大なことが実現したことの背景には、この一人の著述家の力が大きかったと思いませんかね。僕は思います。政治家ではなく、志高い一人の市民の力によってなしえること、むしろ市井でなければできないことがあるんじゃないかと。

* 長いテーマになったけど、これで姉妹都市の話は終わりにします。梵鐘と同じで、姉妹都市にかんする文献はひじょうに少ないが、毛受敏浩「姉妹都市の挑戦」(明石書店)はいろんな情報がつかめる好著だろう。今回の僕の話も多くをここに依っている。

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