これは完全に危険な暑さというやつだな。それでも関東はまだいいようで、関西以西はもっとすごい。「運のいいことに」関東に住んでいてよかった。
今週は朝起きて立ち上がろうとしたら、ふらっとよろけてしまい、窓際と壁に腕と足をぶつけてしまった。かすり傷、軽症で済んでよかった。やっぱり暑さのせいかなと思い、今の季節は気をつけないといけないと念じたのだが、何と次の日も同じようによろけた。今度は若干意識していたので、ぶつけることもなかったのだが、もはや暑さのせいか年のせいかがよく分からない。たぶんどちらの理由もあるのだろうということにして、この暑さには十分に気をつけようという、当たり前の結論を得る。
この間は、やっぱり寛永寺の鐘を聴こうかと思い、土曜日、夕方の時鐘に合わせて家を出る。最高32度くらいの日で、夕方に近いので、暑さも少しマシになってたね。鐘を聴く前に、4時半頃、国立博物館に寄っていく。ここに来るのは小学生の遠足とか社会科見学以来かな。で、ここの所蔵の鐘を見る予定だったのだが、ない。どこにもない。14世紀に作られた鐘が二つあるはずなのに。
たぶん学芸員であろう係員に聞いてみると、なんやかんやと調べながら「展示されていませんね」と答える。なぬー、そんなバカな。どういうこと?と思いつつ、そういえば去年だったか、箱根のポーラ美術館で、ゴッホの線描画を観たかったのに、「展示されていません」と言われたことを思い出した。あのときも「何で?」と訊くと「さあ」と言われたので、今回はその繰り返しは避けた。彼らはそこまでは把握していないのだ。
係員は「銅鐸ならありますが・・・」と残念そうに言う。そんなの分かってるさ。銅鐸が目当てならば、こんなにいい博物館もないよね。すばらしいのがたくさんあるよね。銅鐸どころか、すべてにおいてここの展示物は驚異的だよね。梵鐘以外のことが目的ならば、最高な場所だよね。シニアだと無料だし。
で、がっかりしつつ、上野の森を抜けて寛永寺に。すると門が閉まっているではないか。えー、こんなの聞いてないよ。なんつうか嫌な予感。6時少し前に、ちょっと遠くから小さな梵鐘の音が聞こえてきた。行ってみると、西側の道を挟んで天台宗の寺院があって、そこで鳴らされているのだった。たぶん小さな半鐘サイズだ。寛永寺との時間差を考えてのことなんだろう。で、次は本命の江戸の鐘が鳴るのかと待ったのだが、嫌な予感が的中。今日は休みなのか、暮れ六つの鐘は鳴らずじまいである。OMG!
まったくなんてことだと、あのときとおなじように上野駅に向かう。蒸し暑い中、今日もまた9千歩くらい歩いてくたくたである。よおし、今日も東京駅で駅弁を買って帰ろう、それも二つ買ってやるのだ。
翌日、昨日の空振りがまだ心を曇らせていた。でも、外はピーカンである。35度くらいになる予想だ。もう寛永寺はあきらめて、電車一本で行ける祐天寺の鐘の音を聴きに行こうかと思っていたのだが、老人がこんな日に出かけるのは自殺行為だと思い直した。そうだな。最高気温が32度くらいの日を待とうか。
と、日本サッカーが強くなるためにはどうしたらいいのかという問題、それと梵鐘のことしか頭にない僕なのである。
先週、日本の梵鐘の9割は軍事転用されてしまって消失したことを話したが、それでも1割は残った。残った1割とは、慶長末年以前の鐘なのである。それはつまり豊臣秀吉の没、戦国時代の終わりまで、江戸時代前にあった鐘を指す。と言うのも、当時の軍部にしても、仏教信仰の象徴であり、文化財でもある鐘をすべて亡くしてしまうことには抵抗があったのだろう。どの鐘を潰し、どの鐘を残せばいいのか、その選択に当たって、一人の梵鐘の研究家の論文が参考とされた。
その研究者こそ坪井良平、アカデミーに席はなく、普通に会社で働きながら、梵鐘の研究に没頭していた人物である。明治30年生まれ。昭和14年に「慶長末年以前の梵鐘」という論考を上梓している。
今も昔もこのような市井の研究者というのはいるけれども、僕の知っているのはいわゆる郷土史研究とか、自分の地元にかんする研究活動がほとんどである。僕は民俗学について読みあさっていた時期があるので、そんな人がたくさんいることを知っている。しかし坪井良平の研究対象は全国の梵鐘である。当時、日本全国5千から6千の梵鐘があったのではないか。普通に働きながらこれを調査し、研究するのはすごい。
昔フィリップ・アリエスの「子どもの誕生」を読んで、その内容に感銘を受けたものだが、それ以上にビックリしたのが、この本を書いた頃のアリエスは大学の人間ではなく、銀行員だったことだ。アリエスはその研究が認められて後にパリ大学の教授になるのだが、日本ではありえないその社会状況に、フランスの”エスプリ”というのは、こうした知の全体状況をも含んでいるのだろうな、日本の知的状況とはあまりにかけ離れているなと思った。こういう文化にはなかなか追いつけるもんじゃない。そこから後々には、自国を皮肉ってばかりの同性愛者フーコーが文化大臣になった。この国のすごさを見せつけられた一件だったな。 漱石が文学にかんする本などを読まず小説を書き続けたことを書いたが、心理学の本を読まない僕が、もっとも影響を受けたのはフーコーやアリエスなのである。
というわけで、僕はこの坪井良平という人を無条件に尊敬してしまう。アカデミーの人ではないので著書はすくないが、そんな中で手に入れた「梵鐘と古文化 つりがねのすべて」(ビジネス教育出版社)は、バーソロミューくまが左手に抱えるバイブルのように貴重な本である。
この本の中の梵鐘の一覧には寛永寺の鐘はない。でも、浅草寺の鐘はある。??? どうして?
ネットなどで調べると、寛永寺のほうが、その後改鋳されたものの、もともとは30年くらい古い。1666年に設置され、1787年に改鋳である。一方浅草寺の鐘は、1692年綱吉の命によって改鋳されたとある。だが、坪井良平によると、浅草寺の鐘は実は14世紀につくられたものなのだが、あたかもこの時代に作られたかのように、浅草寺由来であるかのように改鋳されたということだ。なんだ、そうだったの。だから生き残ったし、本にも載っているわけね。専門家の手にかかれば、そんなことは一発で分かっちゃう。
一方、寛永寺の鐘は、撞き座に菊花の文様があったので軍部からすればアンタッチャブルな鐘だった。こんな事情もありつつ、戦争を生き延びた江戸以降の鐘もあったようだ。ときには、なぜか地中に埋まっている梵鐘が発見されることもあるらしい。
鐘の世界はなかなか奥深い。でも、9割の鐘がなくなってしまったのはほんとうに残念である。もしそんなことがなかったら、僕はもっと梵鐘の音を聴いて育ったことだろう。撞くときにはその前後に「捨て鐘」があるということも知っていたかもしれない。
こうやって興味を持ってみると、江戸以降の音にほとんど触れることができないのも残念である。仏教の伝来以降、たくさんの鐘が日本に伝わり、そして現存するほとんどの鐘が鋳造された。しかし、たとえば日本最古の梵鐘が京都の妙心寺にあるにしても、その音を生で聴くことは不可能なのである。そうした古い鐘は、国宝として、あるいは重要文化財として大事に所蔵され、今鳴らされているのはレプリカだからだ。だからこそ、より新しく、文化財的な価値の低い鐘であっても、当時の音のまま聴けることのほうが嬉しい感じがする。
まあしかし、令和のこの時代、全国には500以上の梵鐘がある。機会があればその音のいくつかを聴くこともあるだろう。