大観衆が見守るなか、小池都知事は、目の前の人物がどれほどの英雄なのかたぶん知るよしもないだろう。世界陸連会長のセバスチャン・コーが挨拶し、東京世界陸上が開幕した。実際にはその日の午前中からいくつかの競技が行われていたのだが、開会式は夜となった。
その初日のイブニングセッションのチケットを半年前からゲットしていたのである。友人のおかげで。ただし、開会式があるとは知らなかったね。でも、あのセバスチャン・コーの挨拶を聴いて、これこそ世界陸上だと気持ちが上がった。
夕方の国立周辺はすごい人出で、まだ2時間前だというのに入場に30分くらいかかった。その入り口周辺では日本人がほとんどのように見えた。陸上でこんなに人が来るものかと驚く。この人気の多くはたぶんやり投げの北口榛花がもたらしたものではないか。
しかし、バックスタンド中央の1階席17列目、2万円の席に着くと、このあたりは外国人がひじょうに多い。たぶん、高い席は外国人が多くゲットしているのだろう。日本旅行を兼ねて、半年前から楽しみに待っていたんだろうね。毎年ダイヤモンドリーグというシリーズ大会が開催されるヨーロッパは陸上大好きだし、強国アメリカ、そしてジャマイカも熱狂的である。
僕の隣にはジャマイカ人が4人。女性3人、男性1人。母国の選手が出るたびに大騒ぎ。しかし、それ以外にはほとんど関心がないみたい。4人ともすごい身体してるから、たぶん昔は選手だったのだろう。ジャマイカの応援団は黄色と緑のユニなのでどこにいても目立つが、会場を見回すとやはりみな1階席の高そうな席に陣取っている。隣のジャマイカ男性は、正面スタンドの最前列にいる友人とメールと電話で、手を振ったりして何やら楽しそうに話していた。あっちの席は5万円なのだが。取れなかったんだろうね。ジャマイカ勢の前の席にはイギリス人が4人、わりと静かに観戦していた。
陸上を見るには、もちろん正面スタンド、今回は5万円の席のほうがいいに決まってる。でもそこまで金をかけるのはねえ。2万でも高いんだから。で、僕が友人に言ったのは「中長距離がある日がいい」だった。そういう競技はバックスタンドからでも均等に観られるんだよね。
ということで、この日は女子1万メートルの決勝があった。これがこの夜いちばんの大盛り上がり。トップ引きをしていた日本の廣中が、あっという間に落ちて10位となる。こりゃもう終わったなと思われたが、しかし、そこから粘る粘る。徐々に徐々に順位を上げて行くのだ。このとき優勝争いも激化、4人に絞られ、熾烈な戦いが続いていた。外国人はそうでもないが、6~7割はいる日本人は、その二つを交互に観なければならない。で、優勝争いのゴール前よりも、廣中が6位に上がったほうときのが歓声が大きかった。まあ、世界的な価値があるとは言えないけれども、もう最下位くらいになるんじゃないかと思われたところからのがんばりは称賛されていいだろう。男子400メートルの中島ジョセフとかもね。
しかし、生の陸上はいいね。17時くらいに着席してから5時間以上いたが、全然退屈しない。競技は遠目だけど。サッカーとか野球とかは「つまらない試合」というのがあるじゃない? でも今までどんな陸上大会を観に行っても退屈するということはない。5時間から7時間くらい見続けるんだけどね。
でもテレビ中継も楽しい。今回は男子棒高跳びで6メートル30の世界新記録が出た。すごいね。でも僕は昔、日本で毎年9月に国立でやっていた「スーパー陸上」に行き、目の前でセルゲイ・ブブカが6メートルを飛ぶところをすぐ目の前で観ている。あのときもバックスタンドだったが、棒高跳びはこちら側でやることを事前に知っていたのだ。
このときは感動した。何しろ、ブブカは自分の競技が始まる何時間も前から、ウオーミングのために3回も登場していたのだ。「今日のブブカは本気だ」。会場の誰もがそう感じた。昔の国立は、サブが充実していなかったので、みな本場に来てアップするのが常だった。目玉の一人である100メートルのベン・ジョンソンなどは1回もアップすることなく、本番も凡走に終わった。つまり、まったくやる気がなかったんだよね。人寄せパンダの招待金のために来ていたのがすぐに分かる。
でも、今回世界新を出したデュプランティスも本気の本気だったね。でいうか、すごく真面目な奴だ。なぜなら、金を確定し、6メートル30を一度失敗したとき、普通はそこで止めるもんだよ。でも、3回目までやったからね。驚きである。
なんでそんなことを言うかというと、このくらいのレベルの選手になるとスポンサーとの契約がいろいろあって、世界陸上やオリンピックの優勝ならこういうボーナスとかあるわけよ。世界新もそのひとつ。だから、今回は優勝したから、お腹いっぱい。記録のほうは次に回すかな思った。
さっきのブブカの話だけど、ブブカが「本気」というのは、今回は記録を狙うに違いないという意味である。ブブカは1センチ刻みで世界新を更新していたが、それは数多くのボーナスをもらうためだった。そんなに吝嗇なのかと思われるだろうが、当時の彼を取り囲む世界情勢からして、ブブカは、国家に頼ることなく、個人として生きるために何よりも蓄財する必要があったのだと思う。当時の彼は、ソビエト領のウクライナ生まれ。ロシアじゃなくてソビエトの時代だからね。ウクライナの独立を願ってもいたし、ほんとに大変だったわけよね。
アメリカ生まれのスウェーデン人、26歳のデュプランティスなんか、ブブカと比べればのんきにやれている訳よ。だから、こだわらずに記録に挑戦できる。それはそれでもちろんいいことなのだが。
僕はだから、陸上に行ったとき、選手のウオーミングアップを観るのが大きな楽しみとしていた。残念なことに今はサブ競技場がいいせいか、ほとんど競技はそっちでアップを終えるようだ。だから、バッカウスタンド側の競技、女子走り幅跳びのアップを目の前でたくさん観られたのは良かったな。
というわけで、明日の夜もまた国立に行く。またバックスタンドの同じような席だ。明日は北口が出場。最近調子が悪いので金メダルはちょっと無理かも。でも、やり投げはフィールド中央でやるので、バックスタンドでも観やすい競技なのである。そして、やり投げのウオーミングアップも実に楽しいのだ。やってくれればの話だけど。