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菅野所長のエッセイ:錯覚という錯覚

 心理学を専攻すると、一番最初の頃に勉強するのは知覚についてである。一般教養や概論はだいたいが、心理学のおおまかな歴史について書かれてあって、いよいよ心理学について勉強しましょうねと、まずは知覚からというのが一般的だろう。

 何だよ、あんまり面白いもんじゃねえなあと感じる学生の興味を引くのが、錯視、錯覚、イリュージョン。ミラーの錯視図、ルビンの盃なんてのが載っているやつである。 当時はこの錯覚ということをあんまり深く考えたこともなかったのだが、確か30歳くらいになって疑問がわいてきた。錯覚という現象は、人の知覚というものがいつも誤謬を犯すものだというふうに教えられてきた気がするけれども、それは違うと。錯覚という現象は誤謬などではなく、人間の知覚にとって自然のことであると。錯覚という言葉を使うから、何となくネガティブな印象を受けるが、つまり錯覚とは錯覚ではないのだと。そう見えるのが正しいんだと。

 そう考えれば、これは間違いのはずがないので、別に新たな発見をしたという気はまったくない。専門家に言ったところで「そりゃそうだよね」で済まされることだろう。けれども、多分誰もそういうことを言わなかったし、テキストにも載っていないはずだ。決して言わずもがなのことではないのかもしれない。こういう見方は大事ではないのかなと、当時考えたものだった。

 なんでこういう話を持ち出すのかというと、参議院選が終わり、「ねじれ国会、解消」なんてことが言われるからだ。選挙前からずっとだけど。あれも「ねじれ」なんて表現を使うからいかにも歪んだあり方のように印象づけるが、現実は正反対で、「ねじれ」がなくなったら、二院制の意味など何もなくなってしまう。それこそ参議院など不要だ。二院制のもとでは、「ねじれ」があることが自然といえば自然なあり方なのである。

 多分ほとんどの人はそれをわかっているはずだが、これをさんざん紙面に載せ、いかにも異常事態となっているかのような錯覚を導いてきたマスコミの罪は重いんではないかというのが僕の考えである。ある時期からの翼賛ぶりはほんとに目に余るな。まあしかし、選挙後の内閣支持率は急落。さすがに国民のほうが賢い。一応政権は任したけど、原発は反対多数だしね。

 しかし、これでいよいよやりたい放題の環境が整ってしまった。国民は経済効果のほうを期待してのことかもしれないが、安倍首相にとってアベノミクスは撒き餌にすぎず、本筋は改憲にある。いやあ、これは怖い。彼の思想は、そのパーソナリティ同様かなり幼稚だからな。

 昔から、こういう状況になると僕は不安になる。昔、悲しい結論を出したのだが、それは政治家は政治をあまりしないでいいということだ。国民の利益を第一に考え、そしてそのためのルールを作り、上手に諸国と交渉するなどは、彼らの一番苦手なことなのである。苦手なことはしないほうがいい。彼らの得意なことに徹してもらったほうがいい。立場を利用し、国庫を使って夫婦旅行するとか、族議員として小金を貯めるとかに邁進してもらっていたほうが安心だ。昔の自民党の安心感はそこにあったのかもしれない。国としてわざわざ危険な方向には行かなかったものな。

 さて今日は午前中の競馬で大勝。久しぶりのことですごくうれしいのだがが、やはりあまり錯覚しないで地道にやろうとも思うのだった。

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