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菅野所長のエッセイ:試されるとき

オリンピックの延期決定ということで、まずはよかった。
まあ、当たり前のことだけどね。すでに、辞退するという国がいくつかあって、1ヶ月後を待っていたら、大半がそうなっていただろうし。つまりはオリンピックどころではないわけよ。そもそも、このまま収束したとしても、柔道、レスリング、ボクシングなどの「濃厚接触」の競技なんかに出場する選手はいないだろうに。
ちなみに僕は「中止」のほうがいいと思っている。各国の状況を見ていると、まだ始まりの段階だもの。これ以上傷を広げるリスクは冒さないほうがいいと思うのだがね。ただし、来年またオリンピックをやるということが、これからの艱難と戦う国民の支えになるのであればまた違うのだが。
さて、当初の評価から一変、日本の感染者数の少なさに世界が注目している。大きな理由は検査数が少ないことにあるが、対人的な距離を取ることやきれい好きな民族性が発揮されたこともあろうし、島国という利点もあろう。歴史上疫病は世界を悩ませてきたが、鎖国を何百年も続けたこともある島国ニッポンは強い。だから台湾も有利。いま感染の中心はヨーロッパとなっているのもうなづけるところだ。
しかしながら、島国だからこそ、ダイヤモンドプリンセス号のように爆発的な感染が起こるととんでもないことになる可能性はあるわけで、さらなる警戒が必要である。ということで、都知事が今後3週間を危険期間と定め、なおかつ会見で不要不急の外出を自粛要請は正しい。日本中で東京が一番やばいに決まってるし。3週間でも不足かも。
そんな中、K-1が埼玉アリーナで開催されたり、「ホリエモン祭り」とかが行われたりとかあって、これはもうテロ行為に等しい。ほとんどの国民ががんばっているのに、こういう少数の能天気者のせいでぶちこわしになるのだ。会社の不正と一緒だね。やっているのは一部の人間で、大半はマジメに働いている。いまの政権よりも危機意識が薄いというのは相当なものだな。
僕のほうもウィルス禍の影響はある。2月、3月と講演の仕事とか中止になったり、学会もそうだな。去年さぼった健康診断に行く予定も、病院は危険と見て取りやめた。
2月の時点で、もっとも危険な場所は病院だと思っていた。イタリアのデータでは、コロナによる死亡者のほとんどが80代の老人ということである。ということは、ほとんどが入院者か通院者であろうと推察できる。老人施設と病院が感染者が集まる確率が最も高いわけなので、わざわざリスクを冒す必要はない。観たい映画もずっとがまんしている。
僕は休みの日にはひたすら引きこもっているので、あまり危険はないかな。そもそも人が、たくさんいるところは好きじゃないし。いまはお花見の季節だが、行った人の話によると、ブルーシートとかは一切ないらしい。そういう静かな中で桜を愛でることができるなら行ってもいいかなと思った。感染の危険よりも、あの騒がしさが嫌いなのだ。で、そういう人間がこういうときには強い。

以前、ポケモンの流行で引きこもりが外出するようになったという皮肉な話があったが、今回は引きこもりこそがもっとも生き抜く力を持っていると言えよう。取り巻く環境や状況次第で強者や弱者というのは入れ替ってしまうのだ。コロナ禍から見えるものは、孤独な人間ほど強く、活動的で社交性の高い人間ほど弱い。マドンナが病の平等性を唱えて猛バッシングを受けているが、まあ言いたいことはわかる。
で今日の本題はここからだが、こんな折りにカラオケボックスで騒ぐとか、ライブに行くとかの行動とは、もちろん感染の危険が大だ。仮に罹ったとして、「それは本人の責任でしょ」とかよく言われるのだが、この場合はいわゆる自己責任が問われる類のことではない。 台風が来てるからそれを見に行って高波にさらわれるのとはわけが違う。そんな場合はバカが一人死ぬだけだが、ウィルスの場合は、自分がキャリアになることでそこから被害者を増大させる可能性がある。だから心せよということだが、そういうことは誰でもわかっているはずだ。しかし。
イタリアで感染爆発が起きてきたときに、イタリアの若者が街頭インタビューで「でも、キスやハグはやめないよ」と言っていた。もちろん冗談半分だろうが、イタリア人気質も明白だ。たぶん彼の思いとしては、そういうことまで我慢したくないということなのだろう。その気持ちはまあわかる。が、ここに見えるのは「公」よりも「私」が上位にあるということだ。イタリアやフランスが感染の中心にあるということは、いわゆる個人主義的な文化、精神性が強い国ほどこのウィルスには勝てないということではないだろうか。そんなことを示唆しているような気がしてならない。だからアメリカも相当危ういだろう。
となると、単に検査数が少ないだけでは説明がつかない日本の現状についても、そこには国民の「公」意識の高さを見ることができると思う。自分のためだけではなく、他者のために、他者とともに支え合うこと、それは社会の根幹を成すものだと僕は思うのだが、いままさにわれわれの共同体性(=「共同態」)が試されているのではないか。
バブル以降、そしてバブルが弾けて以降、あの忌まわしい成果主義が示すように「自分のために」を邁進してきた近年の歴史ではあるが、本来の日本社会の共同態は、この窮地においてどれほどに本領を発揮するのか、都知事が考えるよりもずっとここが正念場だと僕は思うのだった。

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