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菅野所長のエッセイ:自分のことは自分でしよう

 先週末は栃木に行ったのだが、日曜に帰ってくると東京は桜が満開だった。行くときには全然だったのに、何だか騙されたような気分。桜ってやつは、開花していく経過も含めて楽しむものなんだなと思った次第である。

 さて佐村河内あたりから始まって、いろんな業界でねつ造やインチキが暴露されていく。そしてシラを切り通そうとする図太さもそれぞれ凄いもんだ。ハナから悪いことをしているという意識が低いからかな。

 かつてのロッキード事件では、あの田中角栄が顔面麻痺になり、全日空の副社長は国会喚問の場で、全身がガクガクと震えだし、署名もままならなかった。
 その中で、政商小佐野賢治はまったくそうではなかった。「記憶にございません」だけを連発したもんだ。あれだけ平気な態度をとり続けられると、ほんとはシロなんじゃないかという思いにも少しなりかねないところがある。というのも、普通の人間にはとても耐えられないことだと多くの人は考えるからだろう。つまり、誰にでも一片の良心というものがあるだろうと。
 しかし、そうした罪の意識自体が低くなっていて、みなが小佐野化しているのか。みんなの党渡辺なんかもその一人かもしれない。8億もらって、2億5千万は返済とか。残りの金にしても、選挙資金として使ったのかも怪しいところである。

 ま、しかし、政治家の場合はいつものことだから今更驚くことでもない。やはり何といっても、理研の彼女である。そのニュースが華々しく流れたとき、僕にはどうもすっきりしない感じがあり、あんな大ニュースなのにこのコラムに取り上げなかった。ほんとにこの人がそんな世紀の発見をしたの?と。でも、そんなことを書ける雰囲気じゃなかったしね。ただのイチャモンととられるのが落ちだし。

 この不審に確たる根拠などなかったけれども、まずは研究室がピンク色になってるところ。こんなことを研究所に要求するなどあり得ないし、それを許可し、内装費を出す研究所もありえない。それからおばあちゃんの割烹着だあ? 今どきそんなことをするやつがいるか?上司が注意しないのか? それもこれもテレビ取材用のやらせだった。

 こんなことは論文のインチキさに比べれば何の罪もない。切り貼りや盗用といったものは専門家が調べないとわからないことだが、多少アカデミーや研究がわかっている人間なら、英語サマリーのコピペだけで、その内容もまるで信用ならないと確信するだろう。こういうことについては理系も文系もない。そして、僕も数多くの論文を書いてきたけれど、30年以上も経ってようやくたどり着く境地っていうのもあるわけよ。長い時間と経験から、これまでのカウンセリングの歴史と伝統の外に立った考察と方法を立件しようとしているわけよ。いくら理系とはいえ、こんな小娘に世紀の発見などできるのかっていうのが一番の不審のポイントだった。IPSの山中さんだっていろんな試行錯誤や不遇などをくぐり抜けてきたはずだしね。

 彼女は学生時代からやっていたようだが、ある時期から、全国の大学でコピー&ペーストを多用してレポートを作成する学生がいっぱい出てきた。それがオリジナルなのかコピペなのかは指導教官側でもにわかに判別できない。もし判別しようと思ったら、論文不正チェックのソフトでも使わないと無理だが、日本語版はあるのかどうか。

 ほとんどの学生たちは卒業にいたる単位取得目的でコピペをする。テストでのカンニングみたいなものだ。他人のノートを丸写しみたいなものだ。
 それとは別に、立派なレポートだとか論文だとか誉められるためには、つまり研究者になるためにもこれを活用する輩がたくさんいる。そうやっていると、幅広い文献からコピペを継ぎ足して論文を作成することイコール研究活動というものだとなってしまうのではないか。研究ってこういうものなのねと。一度もばれたことないし、誉められるし、優秀だと皆から言われるし。でも、さすがに「ネイチャー」ならばれるよね。世界中で追試するんだから。

 結局彼女には、何かを発見するような才能も、研究者としての矜持もないわけで、こういう人を優秀な人材としてしまう大学や研究所のレベルもまた問題だ。優秀なのは、他人のやったことを自分のものにすり替えるところだろう。
しかし、理事長の野依さんあたりはまさかという体である。彼のような研究者からしたら、自分の足下でこんなメチャクチャなことが行われているなど夢にも思わない。そりゃそうだ。一番の被害者は共同研究の山梨大学の教授だと思うが、まさかマウスの系種が違うなんて思わないしね。そんなことをするはずがないと、まともな研究者であればあるほどそう思うだろう。

 この責任を負うべきは、彼女の上司に当たる理研のS氏だと思うが、理研の調査委は彼女一人の犯行とした。これまたお粗末な結論である。この問題の根は深いと思うぞ。STAP細胞があるかどうかよりも。理研および日本のアカデミー全体の恥部がさらされたわけだが、これが文系であっても、同じ事態が進行しているに違いないと思う。こちらはもっとひどいかもね。別に新しい発見なんてしないでもいいんだから。前にも言ったように、そういう才能は上に上がれないし。僕のいる業界でも、ほとんどの考え方は、外国の考え方のコピペみたいなもので、オリジナルなものを展開させていこうなんて気概はないからね。ああそうか、コピペ自体はネット時代に始まったものだが、その精神は古くからあるのだ。

 何の自慢できることもない僕だが、こういうことだけは、ただの一度もしたことないな。人のノートを借りたこともない。基本的に勉強自体をしないのだが、いさぎよく試験を受け、そして不可になる。だから成績も悪いし、留年もしました。おっと、競馬の負けっぷりと同じだな。でも、それが何か?

 本にしても何十冊も書いたが、ゴーストは一度だけ。それも共著だったから。僕は自分で書きたかったが、もう一人が書く時間がないというので、文体を揃えるためにやむなくゴーストに頼んだわけである。あるとき、とても一冊の本を書けるような時間がないと思ったときがあってゴーストを頼んだことがあったが、書き上がったのを見てこれじゃダメだと、最初から全部自分で書き直したこともある。

 今週は雑誌原稿を締め切り3週間前に書き上げってしまったが、僕の書くものはいつも自分が独善的に考えたもので、オリジナルといえばオリジナルすぎるので、今回も読者、識者のひんしゅくを買うのが心配なほどだ。昔から、論文でも発表でもとにかくそうやってきて、バカにされたり、相手にされなかったりしているのだが、でも、自力でやらなければ何の意味もないでしょ。それでダメならしょうがないじゃない。自分の力が及ばずということで。でも、それは恥じることじゃないよね。
 つまり、恥ずかしいわけよね、ああいうことするのは。ただそれだけ。別に自分が立派だというわけではないので、念のため。単純な話、基本的に自分のことは自分でするものだと。小さいときからそう教わったでしょうに。

 ああ、いま思い出した。僕がこういうことにこだわる理由。小学生のときに、宿題で卵を入れる紙容器をつくるというのがあった。僕はこういうのが大の苦手。空間把握ができないし、手がものすごく不器用。あれほど流行ったプラモデルも一度もつくったことがない。設計図みても理解できず、作ろうと思うと、なぜかいっぱい部品が余る。で、そんな親切な作りと部品がそろっていても挫折するのだから、自力でそんな容器など作れるはずもない。それでも前の晩まで悪戦苦闘したが、とうとう親に泣きを入れた。私の父親は基本そういうことには手を貸さない人だが、そのときの僕が本当に哀れだったのだろう。代わりに作ってくれることになった。
 翌朝、それは完成していた。思っていたイメージとは違うが、僕からすれば、それは見事なものだった。これで何とか提出できると、きっと仕事も忙しいだろうに遅くまでかかってやってくれた父には本当に感謝の念でいっぱいだった。
 で、学校にいくと確か全員が提出していて、そこでも胸をなで下ろした。けっこううまく作ったのもあるが、もとより僕は提出できただけで満足だった。その日の最後に、担任が宿題についてコメントした。これはなかなかよくできているとか、アイデアがいいとか。真、自分のは特にこれといった特徴もないので、取り上げられはしないだろうなと思っていた。とにかく出せただけでよかったのだ。
 ところが、そこへ担任が僕の(正確には父の)容器を取り上げ、「これは悪い方の代表だ」と言ってあれこれコメントし始めたのである。いわく、これでは大きさ的に卵が入らないとか、頑丈さが足りないとか。もう、このときのショックといったら、子ども時代の中でも一番のことだったかもしれない。何とも複雑な、嫌あなショック、そして悲しさだった。自分で作ったものならもっと単純なダメージだったろう、しかしそうではないのだ。ああやって仕事もあるのに、夜遅くまでがんばってくれた父親の好意と思いが汚されたのである。自分に非難が来るならそれは引き受けられもする。自分がダメだったと思える。何言ってやんでえとも思える。
 確か小学校4年くらいのことだ。その日その後、うちひしがれた僕は考えた。この非難も批判もだめ出しも全部自分に向けられるべきものだと。頼んだ自分が何よりもいけない。こんなに苦しいのなら、これからは何でも自分でやって自分で責任を取ろうと。ということで、その後も僕はいろいろと失敗を重ねてはいるが、あのときのつらさに比べれば、一人のほうがほんとに楽なのである。

 

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