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猫がしゃべる

 小さい頃、何がきっかけかはよく分からないのだが、歴史に興味を引かれた。小学2年生くらいの通信簿に担任がそんなことを記入していて、僕の親はうっすらと心配になったそうだ。家では、歴史と動物の本ばかりをせがむし、春になっても夏になっても百人一首で一人遊びしていたりするし、親の言うことはまったく聞かないしだからな。まあ、おかげさまで小学校3年くらいには大学受験程度の日本史の知識はあった。

 でも、それは単なる知識だけで、歴史から何かを学ぶということや、さらなる知見を獲得するということには無縁だった。つまり、意味がなく、つまらないことだったよね。それがマシになったのは、ブラブラしていた若い頃にいろいろな知らないところに行くなかで、それぞれの土地のことを知りたいと思うようになってからだ。そして、このところは特にその情熱が高まっているのを感じる。怠け者で生ぐさなのは間違いないのに、朝早く鐘の音を聴きに行くとか、自分でも驚くね。来月は京都に行く予定があるので、東寺か西本願寺の朝の鐘を聴きに行こうと思ってる。

 しかし、鐘の音に惹かれるなんてのは日本人くらいのものではないのか。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 なんて歌があるが、なぜ鐘の音に「諸行無常」を感じてしまうのだろうか? 日本人にとっては当たり前と思われることではあるけれども、こんなの外国人には理解できないのではないか。今日はそのへんのところに迫ってみよう。

 さて近年僕の歴史観に大きな影響を与えているのは、歴史学者の磯田直史である。たとえば五代将軍綱吉の評価を逆転させてくれたのもそうなんだがね。もっとも、その前に塚田学さんていう歴史学者がいて、この人が綱吉再評価の先駆ではあるのだが。(余談、この間、この人の「江戸のあかり」という本を手に入れて感動してしまった)

 磯田が言うには、江戸時代には、猫は十年も飼われると人の言葉を話すようになると信じられていた、ということだ。もちろん、そんなことはあり得ないのだが、文献上には人の言葉を話す猫というエピソードも残っているらしい。江戸は牛込柳町あたり、そんな噂がまことしやかに話されていた。今の新宿のことである。

 明治維新の前年、夏目金之助(すなわち漱石)はこの牛込で誕生する。後々に猫が主役となるユニークな小説が世に出るわけだが、それは漱石が牛込で生まれ、そこで育ったことと無関係ではないだろう、ということである。なるほどね。

 現実にはネコが話すことなどあり得ないわけだが、それでも世の中には自分はネコと会話していると感じたり、信じたりしている人もいるようだ。漱石とは比べるべくもないが、それでもなぜか芥川賞作家の庄司薫は「僕が猫語を話せるわけ」なんて本を書いたりしてるし、現在、ネコであふれるユーチューブ界隈では、さも飼い猫と会話をしているかのような動画がたくさんある。まあ、親バカという感じなのだが、僕はそれに悪感情は持っているわけではない。僕もネコが好きなのだ。

 まあ、ネコにしても犬にしても、人との交わり、コミュニケーションがあることは確実なので、彼らの鳴き声を話し声と認識してもおかしくはない。この辺は、外国でも同じような感覚はあるだろう。けれども、日本人の場合はそれが動物からさらに敷衍されるというか、汎化されていく。

 たとえば、日本の子ども、とくに男の子にとっては昆虫採集はほとんど必須の遊びであり、それを飼うことも同じく普通のことなのだが、これは外国ではあり得ない妙事なのである。ほとんどの国では、虫は害をもたらすもの、除去されるべきものとして認識され、愛玩の対象にはならないのだ。一方で、日本では、古くから、虫かごに入れてその鳴き声を愛でるということをしていたわけで、彼我にはあまりに大きな違いがある。

 このようなことに対して、近年の言語学だったか、脳科学だったか、そっちのほうの見解がある。それによると、

日本人の脳は虫の声を言語として処理する

とされているらしい。 何ですとー! これはとんでもない見解ではないのか。

でも、そうだとすると、いろんな疑問が解けるなあ。

 閑かさや 岩にしみいる 蝉の声

 外国人からすればただのノイズであるところの蝉の「音」ではあるが、すでにして芭蕉はこれを「声」と認識しているわけである。この違いは大きいよね。こうした違いがあるのだから、外国人が俳句が理解するなんてとても無理だな。でも、日本人には「声」であることは当たり前のように入ってくる。それどころか、生き物ではなく、鉱物の鐘の音にさえ「諸行無常」を感じるのである。

 こりゃ特異だわ。まあ、アニミズムの世界ならばということか。こんなにハイテクの国でありながら、アニミズムがなおしっかりと根づいている国、それが日本という国なのである。

 だからね、西欧の文化や思想っていうのがわれわれにはなじまないところが出てくるのは至極当然だよね。あっちの飯がまずいのと同じじゃないか。

 少なくとも、いつも疑問に感じるよね。そういう考え方でいいの? そんな感じ方でいいの?と。一面的、単純に過ぎないか?

 さて、英国留学から帰った漱石はすっかり変わってしまったということだ。もともとはすごく神経質で難しい人間だったそうだが、その辺もかなり和らいだということである。作風もずいぶんと変わっていく。それと関係しているのか、晩年に近いある講演では、海外の小説や本はまったく読まず、小説とは無縁の本しか読まないと述べている。それらは小説を書くうえで役に立たないということでもあるのだが、いい意味での自己本位を持ったほうがいいという趣旨であったことだろう。

 日本最高の作家と比するのは僭越だけど、この僕も心理学とは関係の無いものばかりを読んで、自分のあり方を築いていった。こういうのは単に西洋嫌いとか、そういうものではなく、つまりは、虫の声を言語として処理するような人間として、そうでない人々の言うことやることに違和感を覚えるからである。この業界に入った頃から、違和感だらけだった。周りのみなが、自分はフロイデアン、ユンギャン、ロジャリアンだと言うのがたまらんかったなあ。あんたら、そんなんでいいの? 俺は嫌だねと、あの連中の言うことなど、とても信用できないと、1980年から、たった一人で論考を重ねていったものだ。何ていうか、孤独な作業ではあったけど、漱石が「個人主義」というところの、いい意味での自分本位な姿勢というものだったかなあと振り返ることができる。

 ああ、そういえば、ずいぶん昔の話になるが、日本のある精神科医がロジャースと会ってすぐに感じたことは、「何て鈍い人なんだ」というものだった。それを聞いて、ロジャースと会ったことはないけど、でも、たぶん自分もそう感じるんだろうなあと思った。こういうことは口に出せなかったね。でも、こんな年になって、こうしたことを主張できる根拠を見つけた感じがする。

 それは良かったとは思うが、遅きに失したかなとも思うのだった。

 ちなみに、これ以上はないというネコ及び動物動画を教えよう。それは

 ” Funny Animals Healing ”

 ここには、僕が世界一偉大なネコだと思っているキティが登場するのだが、とにかく登場する動物たちの一挙手一投足、態度や表情から目が離せなくなる。すなわち魅入られてしまうとはこのことだと分かる。かなりの数がアップされていると思うが、できれば古い順から観ていくとより楽しめる。

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