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愚直が大好き

 季節外れの暑さや季節外れの寒さが続く。もう4月だというのに。この間栃木に行ったら、梅と椿、そして桜と木蓮が一緒に咲いてたぞ。

 こういう天候だと喉の調子にも影響するみたいで、微熱と頭痛が襲ってきて、例によって咽頭炎気味である。いっそのこと雨が降って湿度があるほうがいいみたいで、今日はわりと体調がいい。

 「令和の百姓一揆」と銘打って、全国の農家がデモを実行している。原宿や表参道をトラクターが行進する姿はなかなかいいものだった。今後も全国的に展開していくらしいが、がんばってほしい。

 このデモの後尾にれいわ新撰組の党首がいたようだが、一方で、ここの議員の一人が大阪万博の開催日に反対デモをしようと呼びかけてひんしゅくを買っている。批判の論調としては、簡単に言えば、決まってしまったことは受け入れろ、許可も取ってないのではということである。まあ、それ以上にこの議員のもともとの評判が悪いこともあって、「日本の恥」とまで言われているようだ。

 僕はれいわ党もこの議員も好きではないが、しかし、デモを否定するものではない。オリンピックもそうだったが、基本、国民に支持されていないイベントなんだからね。今でも、「万博には行かない」が70%だもんね。

 やると決まったんだから、日本人として成功を願うのが当たり前でしょという論調も分からないではないが、ならば戦争なんかはどうなんだろう。戦争する以上、戦争に反対してはいけないのか、反対するのは「非国民」なのか。かつてアメリカではベトナム戦争の最中でも反対のデモが湧き上がっていた。あれが民主的な国家のあり方というものだろう。それはロシアとの比較でも明確で、ロシアでも当初は反対の声が上がったが、今ではさっぱりである。アメリカのいい点は、こういうとこだけだが。

 だかられいわの大石議員はちゃんとでも許可を取って、正当なデモをやればいいんだよね。でも、勝手にコンビニを集合場所とするのはマズいよね。こういうルール意識の希薄さ、つまり非常識さが炎上を招いていることを自覚しないとね。

 ルールと言えば、ニューヨークでは、歩行者は赤信号でも渡ってよい、という交通ルールになった。何でそういうことになったのかというと、「赤は止まれ」は有名無実なものになっているからということである。日本に来た外国人が驚くのは、車が来ていないのに赤信号を忠実に守っている日本人の姿である。まあ、大阪はそうでもないが(笑)。けっこうな数の大阪人も含む彼らの多くは、車がいないなら赤でも渡ってもいいという考えである。それが合理的であると。

 もうひとつ、いかにもアメリカらしい背景がある。こうした違反で捕まるのは圧倒的に有色人種であるからということである。つまり、このルールは人種差別の温床となっている訳だ。そういう有色側の批判を受けて、それならルールをなくしてしまえば批判もなくなるだろうと、この決定に至ったと。

 なるほど、差別の問題があるのか。差別がなくなるのはいいことだ。

 いやあ、そうであっても、やっぱりヘンじゃないのと思うのは僕だけだろうか。

 WHOの調査によれば、人類の死因の8位は交通事故死である。で、この交通事故死について調べてみる。2019年のデータではあるが、日本は人口あたりの事故死数がかなり少ない方で、世界的には7番目に少ない。しかし、上位の国はというと、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、イギリス、スイスなどである。で、推測だが、人口ではなく、車の保有台数で比較したら、日本の事故死は圧倒的に少ないのではないかと思うのである。それというのも、日本は国民がみな交通ルールをよく守ることから来ているのではないだろうか。

 さらにこれを子どもについて調べる。先のWHOの調査では、全体で8位の交通事故死であるが、5歳から29歳の年齢に限れば、1位となる。子どもと若年層においては交通事故で死ぬ場合が一番多いのだ。

 日本でも子どもの交通事故は注目されていて、俗に「魔の7歳」と呼ばれている。成長とともに活発になり、しかも注意力が追いついていないという年頃であるからだろう。とはいっても、世界的にはやはり少ない方ではあるだろう。子どもについてははっきりとしたデータが見つからないので申し訳ないが、その多寡にかかわりなく大事なことは、子どもにも交通ルールへの意識を持たせることである。そのためには、大人がルールを遵守する必要があるのだ。

 実は僕の場合も、昔は、赤信号でも車が来なければ渡ってもいいんじゃないかと思っていた。でも、あるときに考えを変えたのである。

 昔のことだが、信号待ちをしているときに、下校中の子どもが隣にいたのである。どちらの方向からも車はまるで見えなかったが、僕はじっと待つことにした。子どもがちらっと僕のほうを見たのがわかったが、素知らぬ顔で動く気配を見せないでいると、その子もおとなしくしていた。そして青信号になってゆっくりと僕が進むと、その子は脱兎のごとく走っていって、たぶん家に帰っていった。それを見て、ああ、大人が手本を見せなければいけないよなあと思ったのだった。それ以来、車が来ようが来まいが、人がいようがいまいが、僕は愚直なまでに信号を守るようになった。そもそもそこで数十秒くらい待ったって、人生というスパンから見ればどうってことないしね。何を急ぐ必要がある。

 合理的に考えれば、車がいなければ渡ってもいいだろうとは僕も思う。でもそれは大人の場合なのだ。子どものうちからそう思ってしまったら、きっと危ない眼に遭うだろう。それで取り返しのつかないことになってしまったら、可愛い盛りの子どもを失う親を思うとね。そうやって、子どもを守るのも大人の務めというものではないか。そういうこともまた、社会全体で子どもを守るということではないだろうか。

 だから、赤でも渡ることを合理的と考えるのは、百歩譲って、いいけど、渡らないでいる人を馬鹿にしている奴は嫌いだ。だから、愚直に交通ルールを守る多くの日本人が好きだ。

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