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菅野所長のエッセイ:性善説のこれから

 酷暑である。数少なく自信を持って言えることのひとつに「暑さに弱い!」というのがあるが、こんな暑さになると知らずに、日曜、月曜とゴルフに行くことになっている。これは自殺行為ではないだろうか。しかし、昨日よりたった1度低いだけでも、今日は過ごしやすいなと感じてしまう自分の適応力にも驚く。多分何とかなるんだろう。

 さて、京大グループが発表した、赤ちゃんの性善説についてだが、その実験映像を遅ればせながら初めて観た。面白い実験である。ネットでは門外漢が批判しているけれども、実はこういう単純な実験ほど、実験としては完成度が高い。まさにコロンブスの卵。多くの人は「こんな簡単な方法で?」と思うだろうが、僕にいわせれば、実に見事なデザインである。これまで文系の研究で世界的な反響に及んだものなど日本から発信されたことがあっただろうか、と思うとなお感慨深い。

 昔から日本の文系研究者というのは新しいものを創り出すのが苦手だった。この根本問題は、発想が豊かで面白い考えができるタイプの学生は上に進みにくいことになっていることだ。語学に強く、これまでの研究をよくレビューしているというようなタイプ(すなわち優等生タイプ)ばかりが研究の道に進むような仕組みになっているのである。哲学もそうだが、他の人がどういう考えをしているのかについて異様に詳しい人ばかりの集合体が、日本の人文研究の世界なのである。

 そもそも赤ちゃんの実験というのは、当の本人がどういうつもりなのかを知ることができないので、批判を浴びやすいが、この実験は減点が少ない。追試が簡単なので、世界中ですぐにまたいろんな結果が出てくるだろう。またバリエーションも多々試みられていくだろう。そういう実験こそがいい実験だ。

 確かに赤ちゃんが善悪を判断しているのかはわからない。だから、かの助教も性善説の「可能性」に言及しているにすぎない。僕自身は、性善かどうかにはさして関心は抱いていないのだが、実験そのものには大きな意義があると思う。赤ちゃん研究にかんしては、60年代くらい以来の画期的なものではないのかな。

 かつてアメリカで、赤ちゃんは自己認識というものを持っているのか? にかんする実験がなされ、それは単純かつユニークなものだったが、それを自己認識と呼ぶことはできないとされ、赤ちゃんは自分の考えを伝えることができないという壁に阻まれた感があった。しかし、この実験は、こういう方法もあるというイマジネーションを多くの人に与えたはずである。

 あるいは、自己認知というものを単に調べるために作られた”WHO AM I?”テストも、むしろそれ以降に大きな発展を見せ、年代によって自己認知の内容が変化していくことを見事に明らかにしていった。ちなみに、僕もこれに簡単な改修を施し、認知レベルからコミュニケーションレベルに言及するものを作っている。学会などでは発表してないが、ほんのちょっとの工夫でこんなことができるんだとわれながら感心し、これをきっかけにして、たくさんの新しいアイデアが産まれた。

 それから、ネットの人間の反応もちょっと興味深いな。彼らの多くは性善説をハナから否定しているのわけで、自分が依って立つ前提が揺さぶられることに大きな不安を感じているようにも見える。彼らの多くは、性悪説に近いのだが、その考えは彼ら自身を護っているものである。自分がこんなふうに他人を誹謗中傷したりしてもかまわないんだ、なぜなら、自分だけでなく、人間はそもそもそういうものだから。悪に満ちた存在だからだと。本来は悪意にまみれていないことを思うと、そういうことができにくくなるからね。つまり抑制につながるのかもしれない。

 ま、性善にしろ、性悪にしろ、どちらにも根拠はなかった。性善説や性悪説とは、これまで信仰に等しいものに過ぎない。ところが、そこに一石が投じられ、もはや信仰とは違うレベルで、人間がもともとは悪でもないという仮説や認識が与えられた。それはどういう影響を人々に与えるのだろうか。
 心理や教育の研究者たちには豊かな鉱脈が与えられたことだろうが、はたしてそれを生かせる人材がどれほどいるのかはわからない。

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