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菅野所長のエッセイ:原発に思う

このところ、どうも調子がいいとは思えない。体調はさほどでもないのだが、どうも心理的な部分にあるようだ。先日見た夢は、学会に行っていて、僕は発表があってその会場に急いでいる。しかし、どの教室や校舎に行っても、発表会場がどこだかわからない。人もいない。焦りながらかけずり回るという悪夢である。
こういうのは僕の悪夢のパターンのひとつだが、はたして今何が問題なのかよくわからない。不安要素、心配要素は数えればきりがないのだが、これといったものはないしなあ。まあ、そのうち何とかなるか。

世の中には、原発反対派と原発擁護派がいるが、日常的な場で、この二者が話し合うという機会はほとんどないのだそうだ。そういわれれば、僕は擁護派の人と話したことはないような気がする。たぶんお互いに話にならないと思っているのだろう。「お前らは」わかってねえ」と。

まあ、そういうことはよくあることだが、今回ばかりは擁護派の分が悪い。というのも、擁護する根拠からなにからだいたいが国によって操作されていたことが明らかになったからだ。つまりこの国は中国と同じようなものなのだ。そもそも忌野清志郎が反原発ソングを出したとき、流しちゃいけないと圧力がかかったよね。「安全神話」にブレーキをかけることがあってはいけないと、そこまでやるかというくらいのことを国はやってきたのである。中国とどこが違うのか。

原発にかんしては、電力会社と国が一体となって情報操作しているのだからたまったものではない。原発に異を唱える学者もみな圧力がかかる。ある人は、研究室の同僚から「私は、電力会社から、あなたを監視するよう言われて赴任してきた」と言われたそうだ。中国なら当たり前だが、恐ろしいことだ。天安門の翌年、縁あって中国に行き、北京大学や精華大学といった大学の人たちと話す機会があった。学長や教授は何かどこかで口ごもる。実はここでは学長や教授はあまり偉くなく、共産党から派遣された学生部長が権力を握っている。つまり彼らからつねに監視されているのである。日中の差は、こういうことが公になっているかいないかの違いに過ぎない。

それでも人は自分の主張をそう簡単には変えない。擁護派には「じゃ電気使うな」とか乱暴なことをいう人もいる。原発を擁護し、その主張を守るために費やした労力を簡単にフイにしたくはないのである。まあ、それもしかたないが、根本に立ち戻れば、そもそもわれわれはあまり選択の余地を与えられなかった。現実的に言うと、われわれは電力会社を選ぶことができない。だから電気料金は税金なのである。しかも、税金とは言ってないので、簡単に値上げできる。

もしも、原発でつくった電気を売る会社と、自然エネルギーでつくった電気を売る会社のふたつがあれば、みなどちらを選ぶだろう。原発はランニングコストがいいから安価で電気を提供できると、ほんとうか嘘かわからないことを言うが、たとえ電気代が高くても自然エネルギーのほうを選ぶ人はけっこういると僕は思う。安いからいいという経済原則は必ずしも成り立たないこともある。そもそも経済がすべてに先行し、みながそれを望んでいるという考え方がおかしい。それもまた擁護派の根拠のひとつであるのだが。

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