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菅野所長のエッセイ:世の習い

先週は出かけてしまったのでコラムをアップしませんでした。
今週は元号だな。「令和」についてはわりと評判がいいようだ。元号にはあまり関心のない僕だが、まあ変なものじゃなくてよかったとは思う。実は平成は何だか安っぽい感じで好きではなかった。今回も、懇談会のメンバーに林真理子と宮崎緑がいると知ってこれはやばいかもと思ったからね。安直に「安」が使われるのを怖れていたし。もし使われたら非難囂々だったろうが。
万葉集からということで、その国粋性を売りにしているが、その元となるのは中国の古典「詩経」であろう。中国ではこれを揶揄している向きもあるけど、実のところはうらやましいのである。元号は廃止してしまったからね。
しかし、「出典は詩経からです」と言ったところで別に恥ずかしい話じゃない。当時の日本の文化はみな中国のパクリであって、それを取り入れてのち日本独自の文化となっていたわけだから。最初はマネから入るものなの、何でも。「学ぶ」は「真似ぶ」から来ているという説もある。
そもそも日本人のほとんどは大陸から朝鮮半島を経て流れてきたわけで、ルーツはあっちなのだ。唐辛子に強い人なんてのは、朝鮮系の色濃い日本人だと僕は思っている。で、そういうことも別に恥ずかしいことではない。この辺が国粋主義者の根本的におかしいところなのだが。しかも、こういう人が愛国ではなくて、力を求め私欲に走るのも世の習いである。
世の習いと言えば、もう古い話だが、NGTメンバー間の諍いというのがあった。ファンが家に来て暴行というのだが、これが不起訴というのも何だかわけのわからない話である。まあ、グループ内でのイジメなのであろう。僕なりにイジメというものをひとつ定義するとすれば、もともとはどこにもない勝者と敗者をつくり出す集団的行動という言い方もできるのではないかと思っている。その初源は遊びであり、ゲームである。遊びとイジメは基本的には同じである。勝者にとってそれは楽しい。
先日、リトグリの2度目の武道館ライブをBSプレミアムで観ていて思ったのだが、リトグリのように音楽性を追求するグループと、おにゃんこから始まるアイドルグループというのはまったく異質なものである。おにゃんこ、モー娘、AKBなど音楽性は二の次にしたグループが最初から孕んでいる宿命とは、その内部で勝者と敗者をつくることに邁進しなければならないことだ。ファンもまた音楽は二の次であり、その戦いを楽しみ、自らもまた参画していくのである。もちろんそれは楽しい遊びとして始まっているわけだが、先述したように、遊びとイジメはつねに接岸しており、その流動的な境界は容易に乗り越えられてしまうものなのである。
希代のロリコンにしてこれの発案者である秋本康は、たぶん女子集団の特性をある程度理解しており、そこに生まれる感情的な軋轢こそが原動力となることをぼんやりと想定していたのかもしれない。しかしながら、それはつねに危機と隣り合わせであり、その危機を回避するために、たとえばジャンケンによって勝者と敗者を分かつという奇策に打って出た。この早めの奇策は成功し、AKBは絶頂期の延長を果たすことができた。が、今回の事件はいよいよ終わりの始まりが色濃くなったとの示唆であろう。
ついでに言えば、延命措置こそが、終わりを早めるということもままある。アイドルグループが長期に安定するためには、むしろ勝者と敗者が明確になっている必要もあるからだ。SMAPがあれほどの人気で長らえたのは、キムタクという絶対的な勝者がいたからである。力関係が拮抗するほど、軋轢は増し、争いは激しくなる。夫婦も同じ。これもまた世の習いである。

日曜はクラシック第一弾、桜花賞。これは固そうだ。⑮ダノンファンタジーから、④クロノジェネシス⑧グランアレグリア⑭ビーチサンバ、手を広げても①シェーングランツ⑨アクアミラビリスまでね。

 

 

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