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菅野所長のエッセイ:なりたくないの言い分

明日の金曜は休むので、忘れないようにもうアップしてしまいます。
こういう人になりたいと思うのと、こういう人にはなりたくないと思うのとでは、モチベーションとしてどっちが上なのだろうか?

TVで森喜朗が例によってバカなことを言うのを見て、「こういう人間にはなりたくない」と自分はずっと思ってきたよなあとあらためて思ったのだが、ではどういう人間になりたいかと言うと、はっきりとした人間像は出てこない僕なのである。

昔から「こうはなりたくない」というのはたくさんあった。人を批判的に見ることの得意な人間というのはこういうものである。

そんな自分でも、ときに「こういう人になれたらなあ」と思うことはある。

そういう中の一人である関西のYさんが亡くなったという知らせが届いた。ご主人からの喪中はがきであるので死因とかはわからないが、享年71歳、惜しい人を亡くしたものだ。Yさんはカウンセラーでありながら、晩年どこぞの校長先生になった人だが、彼女なら、都知事や総理大臣に就任したとしても絶大な信頼を勝ち得ただろう。知り合ったのはもう30年は前になるか、その率直で気持ちのいい人柄に触れ、僕のようなひねくれた人間としては心底うらやましく思ったものだった。お酒を飲めない人だったので、いつも会うと手短な会話だけで終わっていたが、もっと語り合いたかったなあと思う。

Yさんのように、この業界にあって、まさに人徳というものを感じさせる人がときどきいるが、そういう人に触れ得たとしても、自分がそうなりたいとは思うことはない。正確に言えば、「なりたい」ではなく「なれない」。自分には不可能だとわかっている。だけど、「なれたらなあ」と一瞬だけ思う。ほんの少しの憧れ、羨望にとどまる。宮沢賢治の「アメニモマケズ」だってね、いいけど、自分には無理そうだ。

一方、「なりたくない」というほうは、努力次第でそこそこ達成できるような気がしないでもない。だからモチベーションとしてどちらが強いのかという問いを再び立てるとすれば、達成可能な分「なりたくない」に軍配が上がるのかもしれない。
しかも、「なりたくない」に含まれる美意識や倫理観とはあくまで下限としてのものだろう。一方、「なりたい」は、自分の器というものに無自覚であり、したがって夢想的であり、不可能性を無視することでもあろう。もし、なる可能性があるならば、そもそも「なりたい」と思わないだろうし。

結局、自分は自分以上にはなれないし、それでまったく問題もなく、文句もない。しかし、「なりたくない」という気持ちがあると、その幾ばくかの美意識、倫理観のゆえに下限が設けられる。つまり、変なあきらめによる怠惰が許されないところもある。

ここまで書いて気づいた。
「なりたくない」と思うのは、ややもすると自分もそうなってしまう可能性があるからだろうな。それをどこかでわかっているからだな。怠けていると、油断するとそうなってしまうのではないか? そういう不安がどこかに潜在しているに違いない。だからわざわざ「なりたくない」と自分や人に向けて宣言するのだ。まあそれが一片の矜持になるのならよいのだけれど。
さて、先週のジャパンカップ。
馬主、北島三郎の①キタサンブラックの楽勝だったが、本命の③ゴールドアクターが力尽きてクビ差の4着。2着は⑫サウンズオブアースだったし、③が3着なら本線的中だったがね。競馬はなかなか思い通りにならん。
でも、京都の重賞では、狙っていた10番人気の⑦アースソニックが3着(ただし同着)に来たので、取り返すことができた。

今週は、ダートGⅠチャンピオンズカップ。本命はアウォーディ。相手はコパノリッキー、ホッコータルマエ、ノンコノユメの3頭に絞ってみるかな。 と思っていたら、ホッコータルマエは急きょ引退が決定。相手中心は残った2頭で、もしかしたらの3着候補を見つけようか。でも、そんなふうに手広くせず、最小点数で大きく張る、そんな馬券師に私はなりたい。

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