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「雨を見たかい」~平和の礎石にかんする考察その①

15年目の3月11日ということで、特別にこのコラムをアップします。特別だから長いよ。

 あの年の5月、高良さんといっしょに岩手から宮城の沿岸部を南下しながら被災地を巡った。あれから15年か。その後3回くらい一人で仙台の海岸部を訪れたな。行く度に復興が進んでいることにホッとしていた。あの「風の電話」と呼ばれる電話ボックスは、その後世界に波及し、15年経った今世界に500台以上あるのだそうだ。

 能登のことも気になるな。こちらは2年間で2回行ったけど、今は逡巡している。行けば、怒りが湧いてくるだろうからだ。

 今週、残念なことがひとつ、喜ばしいことがひとつ。

 残念なのは、番組予約までして楽しみにしていたNHKBS「英雄たちの選択 夏目漱石」である。中身があまりにも薄っぺらだった。小森陽一、高橋源一郎の二人のゲストの解説がステレオタイプに過ぎたね。番組予約したなんて「アメリカンアイドル」以来だったのにい。漱石の偉大さにケチがついた感じがした。

 喜ばしいことは、石川県知事選で現職の馳浩が負けたことだ。高市首相まで応援に来てたにもかかわらずである。さすが石川県民はよく分かってる。高市人気にもごまかされなかったね。これには少し溜飲を下げたな。

 さて、何だかんだ言ってもWBCは観てしまう。実はNetflixにも入ってるしね。 で、試合を観て、先週の「信頼」のコラムとの関係で気になったことが一つある。

 それは三戦目となるオーストラリア戦で、日本屈指の好打者、大谷が「師匠」と呼ぶ近藤健介に代打が送られたことだ。

 今大会の近藤は絶不調。オーストラリア戦でも無安打は続き、12打数0安打となった。そして負けている展開で大谷が出塁。二死満塁。ここで監督の井端は近藤に代打を送った。いやあ、いくら不調でも近藤に代打を送るかね。もちろん、そういう策もなくはないのだが。

 僕の心はモヤっとしたのだが、それよりも、このときに先週述べた「信頼と信用」との違いが露わになったと思った。たとえば、まったく同じような状況で大谷の打順になった場合、ベンチは大谷に代打を送るだろうか? 絶対にないと断言できるな。これは日本的な、情実なあり方とも違うのである。アメリカでは、ジャッジに同じことをするか? ドミニカならゲレイロJrにやるか? やらないよね、絶対。

 それは彼らが打てないことで負けてもしかたないと皆が思っているからだ。これが信用とは違う「信頼」というものなのである。「絶対に打つ」という信じ方(信用)とは違うわけだ。

 文脈に沿えば、大谷はそういう「信頼」が寄せられる存在であり、近藤はそうではないということになる。

 しかしながら、「信頼」というのは客観的なものではない。主観的なものでもある。だから、この場合、監督にもよるのだ。「信頼」が成立するためには、信頼される者と信頼する者の両方が必要だ。

 たとえば、前回監督の栗山ならばどうだろうか? 僕の推測ではそのまま打たせる可能性が高い。栗山は選手としても監督としても凡庸だが、凡庸さゆえの頑固さがあった。一度信頼をしたら、愚直にそれを貫くのではないか。

一方、井端は打撃も守備もとりあえず一流、目鼻のよく利く非凡な選手だった。それゆえに柔軟といえば柔軟である。だから,大谷ならともかく、近藤を替えることも決断できたのだろう。

 これはどちらが良いとか悪いとかいう話ではない。「信頼」ということの本質を説明する好例だという話だ。

 端的に言えば、井端は近藤を「信頼」できなかった。しきれなかった。「信頼」することにはリスクがつきまとうのである。「もしも失敗したら」ということを怖れていては、「信頼」することはできない。では、信頼を貫くことが正解なのかというと、それも何とも言えないことなのである。こうした経験を通して、監督として、リーダーとして成長していくものだ、と言うことはできるのだが。

 と偉そうなことを言ってるおまえはどうなんだ? と言われれば、僕なら近藤は替えません。愚直だからね、僕は。近藤は大谷の次に「信頼」に足る選手だと思っているからだ。すごく正確に言うと、「信頼に足る」ではなく「信頼するに足る」なのである。このような違いにも「信頼」というものの本質が現れ出る。なかなか深いところだよね。

 ということで、予定外のことだが、「信頼」についての続きを書いてしまった。

今週は以下のことを書くつもりだったのに。で、本題に移りましょう。

 

 昔々、まだ10代で、何をしたらいいのか分からずブラブラしていた頃、長野あたりにしばらく居たときがあった。

 で、市内を歩いていたら、どこからともなく音楽が流れてきた。曲は「雨を見たかい」、アメリカのロックバンド、クリーデンス・クリアウオーター・リバイバル(CCR)のヒット曲である。

 CCRはジョン・フォガティというミュージシャンが絶対的な中心のバンドである。彼はキーボードからサックスまで楽器が何でもできて、作詞作曲までこなし、リードボーカルとしてもすばらしかった。CCRは4年間という短い活動期間だったが、他にも「プウドメアリー」という名曲を世に送り出している。

「雨を見たかい」が大流行したのはそのときよりも1~2年前だが、日本でも根強い人気があって、こんなふうに街中で流れることにもそんなに違和感はなかった。僕も大好きだったし。

 しかし、数日後、長野から少し離れた小諸の町でも再び「雨を見たかい」を聴いたのである。これは確か喫茶店のような場所だったと思う。とうにヒット曲のランキングからは外れた曲であるのに、この地ではよほど人気があるのかと思った。あるいはこういう流行にも東京との時差があるのだろうか? ずっと遅れて今頃流行っているのだろうか? それもあり得るのか。

 とにかく、そのとき長野周辺には1週間くらいいたのだが、「雨を見たかい」を4回は聴いた。好きな曲だが、そこまで来るとさすがに違和感が湧いてくる。でも、とくに考えるべきことでもないと思ったのだろう、この出来事は記憶の隅に追いやられていた。

 ところが、30年くらい経ってのこと、今からだと20年くらい前、たぶんだが謎が解けた。

 ひょんなことから知ったのだが、アメリカのフロリダ州にクリアウオーターという名の町があって、そこは長野市と姉妹都市の提携を結んでいるのであった。それも1959年からというからすごく長い歴史なのである。なるほどね。他県の者はまるで知らないことだが、長野市にとって「クリアウオーター」という名はひじょうに近しいものだったのだ。それがバンド名に入っているわけだから、当時この曲が世界的にヒットしたのはさぞかし嬉しいことだったろう。この地で愛される理由もよく分かる。

 もっとも、最近調べて分かったことだが、CCRのバンド名はフロリダのクリアウオーター市とは無関係で、バンドメンバーもみなカルフォルニア出身なのである。でも長野市の人にとって、そこは大事な問題ではない。その名が取り上げられれば、長野市のアピールにもなるということなのだろう。

「ねえ、雨を見たかいって曲知ってるでしょ? あのバンド名のクリアウオーターっていうのは、フロリダにあって、長野の姉妹都市なんだぜ、すごいでしょ、知らなかったでしょ?」

何てことも言えるのである。

 しかしながら、そもそもクリアウオーターはフロリダの沿岸にある避寒地である。山国で避暑地とも言える長野市ととほとんど共通点がないように思える。ひょっとしたら、どちらも水がきれいということはあるのかもしれないが、なんでこの二つが姉妹都市になるのか奇妙な話なのだ。たとえば、神戸のアメリカでの姉妹都市はシアトル、横浜はサンディエゴと、どちらも港湾という共通点がある。本来、姉妹都市とはそういうものなのではないのか? いったい姉妹都市とは何なのだ? 

 ということで、今回の本題は僕の古い記憶につながる姉妹都市の話である。けっこう壮大な話になるので2回か3回かに分けることになるかもね。

 「雨を見たかい」は、当時のベトナム戦争にたいする反戦の意味合いがあるんじゃないかと、一部で放送禁止となった楽曲である。この「雨」とは、空から降ってくるナパーム弾を意味しているんじゃないかと。ほんとはそういう曲ではなかったのだがね。このくらいのことで放送禁止になるなんて、政府が相当ピリピリしていたことが分かる。まあニクソン政権だからな。

 で、現在の世界状況に目を向ければ、過日、トランプ大統領の一般教書演説があって、そこでは力による平和、武力による平和というものが主張されたわけだが、その途端にイランへの空爆が始まった。まったくアメリカは世界一戦争を好む国であるな。今回のイランとのこともこの先どうなるのか、イランが短期間で白旗を揚げればそれで済みそうではあるが、地上戦にまでいけば長期化は免れないだろう。ベトナムやアフガンがそうだったように、ゲリラ戦になれば10年、20年単位の戦争になるよね。それでも、なんでこんなに戦争好きなのか。

「雨を見たかい」が放送禁止になった当時、アメリカでは全国各地でベトナム戦争反対のデモが盛んだった。今回のイランへの襲撃に対しても、アメリカでは早くも戦争反対のデモが湧き起こっている。僕の知る限り、アメリカ国民が戦争を支持したのは、2001年の同時多発テロに対する報復攻撃だけだったと思う。いつの時代も戦争国家のごとくなアメリカではあるが、それを推進しているのは時の政治家であって、ほとんどの国民は戦争をしたくはないのだ。

 ということで、歴代のアメリカ大統領と戦争のことについて調べていると、トランプがついにやっちゃったんで、在任中に戦争をしなかった大統領は20世紀以降4人というところになる。トランプファンの自慢の種も消失したね。残念だったね。

 さて、そのうちで注目すべきはアイゼンハワーではないだろうか。

 日本に原爆を落とし、朝鮮戦争を始めたトルーマンの後を継いで大統領となったアイゼンハワーは、最高位は元帥の軍人出身である。そのアイゼンハワーが着任した頃、朝鮮戦争は実質的に終わりを告げており、世界は冷戦の只中にあった。厭戦気分が強かっただろうし、そうした背景も大きかったのではないか。ソ連や中国、中東など、アメリカを敵視する国の存在も無視できない中、ある意味戦争を禁じられた大統領としてのアイゼンハワーは、核軍縮や平和利用を訴えるとともに、1956年、元軍人とは思えない政策をも表明した。それは市民レベルの交流による世界との融和政策、”ピープル・ツー・ピープル・プログラム”と呼ばれるものである。

 これは一般市民や市民組織が外国の市民と直接的な交流をして、相互理解と世界平和を達成しようというものである。こんな政策が、戦争好きなアメリカ政府、元軍人の大統領から生まれたとは信じられない。しかし、本当の話である。もっとも、冷戦下における政策であるから、軍事ではない部分での支配政策という意味もある。つまり、武力を使わずに外国を支配する手立てとして、アメリカのイデオロギーを各国に浸透させていくと、政府の思惑はここにあったと思われる。

 ところが、アイゼンハワーがこのプログラムを発表する前から、アメリカでは、市民レベルでの外交、海外交流がすでに活発化していた。そのひとつが、後々に「姉妹都市」と通称されることになる、都市間の交流だった。たとえば、1955年、被爆都市の長崎に、アメリカのミネソタ州のセントポール市から提携の申し込みがあった。縁もゆかりもない市からのことで、長崎市からすればたいへんに唐突なことだった。

 一方で、セントポール市にすれば熟慮の結果であったのだろう。彼らは、自分たちの試みが画期的なものであることを十分に自覚し、友好を結ぶにふさわしい相手を見つけなければならないと考えたことだろう。世界の平和や融和を志すのであれば、かつての敵国、しかも原爆が落ちた広島か長崎ではないかと。リスクはあるがまずそれを最優先しようと決議したのではないだろうか。

 そして、この唐突な申し出を受けた長崎側も、いろいろとすったもんだがあったはずだが、最終的にこれを受け入れ、日本初の「姉妹都市」関係が誕生したのである。終戦から10年、この頃には「アメリカ」ということへの恨みやこだわりというものは長崎にしてあまりなかったということである。内部的な不安はおもに予算であったようだ。

 一方、広島は長崎とはちょっと違ったようである。長崎は1955年だが、広島が友好都市関係をつくったのは1959年のことである。ヒロシマは、長崎以上に縁組みの申し込みは多かったのではないかと思われるが、最初の提携都市となったのはホノルルだった。相手都市を時間をかけて吟味し、決して大都市ではないホノルルになったところに広島のこだわりが感じられる。

 広島と比べれば長崎はかなりおおらかな感じだが、それでも戦争という鍵概念は生き続ける。セントポール市との提携の締結日は1955年の12月7日である。12月7日、それは真珠湾開戦の日なのである。このことはセントポール市側の意向だったのだが、セントポール市のみならず、当時のアメリカの一般市民の思いや決意が忍ばれる、と僕は感じる。姉妹都市活動への積極的な参画は決して戦勝国の奢りではないと。

 12月7日に被爆都市長崎との友好を決める、これをもって、セントポール市が何をしたいのか、二つの都市がどのような関係を築いていこうとするのか、それは明らかだ。かつての戦争の恩讐を越えるということ、それは誰の目にも明らかだ。

 長崎がそのような関係を結んだとき、もうひとつの被爆都市ヒロシマもこだわらないわけにはいかなかったことだろう。提携の相手はホノルルとなったわけだが、ホノルル以外、世界のどんな大きな都市であっても広島とは釣り合わないのである。

 このようにして、日本では長崎を初めとしたが、アメリカから始まる姉妹都市活動、友好都市活動は世界的に広がっていくのである。この続きは来週になるが、今週は東日本の震災からちょうど15年ということで、岩手県大槌町とその姉妹都市について記しておこう。

 三陸沿岸にある大槌町は大打撃を受けた町である。大槌町は2005年からカルフォルニア州のフォートブラッグ市と姉妹都市となっていた。震災で壊滅的な状況になった大槌町に対して、これを援助すべく、フォートブラッグ市は10万ドルを目標に募金活動を始めた。大槌町の人口は15000人、一方フォートブラッグは7000人、小さな田舎町である。しかし、フォートブラッグ市民の熱意はすごく、24万ドルもの募金が集まったのである。すごいことだよね。こうしたことも市民レベルで交流のある町同士だからなのである。

 ちなみに、「風の電話」が最初に設置されたのはこの大槌町でのことだ。これがモデルとなって、世界中に広がったのである。

 もうひとつちなみに。クリーデンス・クリアウオーター・リバイバルの「クリーデンス」とは、「信頼」という意味である。念のためだけど。

 1950年代にアメリカで始まったのこ活動は、アイゼンハワーの政策という後押しを受けつつも、国や政治という枠を越えたものとなっていった。しかし、残念なことに、政治家たちによる外交は世界の平和を構築することができず、むしろ簡単に破壊してしまうのである。それはまた次回に。

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