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ピンクの椿

 イチョウ並木の下に寒椿の植え込みがある。最初に見たときは単純に赤い花だと思ったが、天気のいい日、陽光を浴びたそれは赤というよりも濃いピンク、ショッキングピンクだとわかった。僕のイメージする寒椿は、濃緑の葉とともに白い雪をかぶった、冷ややかな赤い花という感じなのだが、実はツツジに近いものであるのだな。

 色の境目というのは難しいよね。昔、大学内で異種格闘技のような研究会に招かれていたとき、緑と青の使い分けがない種族があると言語の研究者が紹介していた。彼らの色彩概念からすれば、青と緑は同じひとつの色と識別されており、欧米の研究者からは”GRUE”と呼ばれていると知った。

 なるほどなと思った。日本でも、緑色の信号なのに「青」と呼ばれていて、それを揶揄する人もいた。僕も確かにそうだなと思っていた。正確には緑なのに何で青なのか。でも、色の識別の仕方もまたある文化での発現に過ぎないと知れば、いちいち神経質にならなくてもいいってことだよね。今後椿の花はどんな色と聞かれても、僕は「赤い色」と答えるんじゃないかな。「正確にはショッキングピンク」とか言わなくたっていいのだ。だから、結局はどうでもいい話なのだが、ピンク色だと発見したのは小さな喜びではあった。

 近年われわれに突きつけられている情報リテラシーついても、まさに混沌としていて何が正しいのか分からない。発信内容も発信元もすべてが疑わしいわけで、まずは疑ってかかるというのが正しい。疑がり深いことにかんしては誰にも負けない僕だけど、昨今ではさらに磨きをかけないといけないようだ。

 僕が疑り深いというのはたぶん実体験を重視しているからだろう。そういう意味ではアナログ的、古いタイプだよね。

 それとともに、偉そうなことを言うが、情報のどこに眼を行き届かせるかということも大事ではないかと思う。

 というのも、多くの情報は、誰かの意図によるものであり、すなわち謀(はかりごと)であるからだ。たとえ、一寸のほころびもないように見えても、謀は術(すべ)に過ぎない。その術を踏み抜いた底に、確かな道理あるいは倫理があるのかどうか、それが大事かなと思うのだがね。

 そうして考えると、いわゆる発信元、発信者の信頼性ということに行き着くこともある。人によって見方はいろいろだという相対性とは無関係に、ひたすらな謀として平気で虚偽をまき散らす人間もいて、それが跋扈しているのがSNS社会というものである。

 昔々寺山修司は「書を捨てよ 街に出よう」と言ったが、今なら「SNSを捨てよ 街に出よう」ということになるかな。でも、若い人にそれができるかどうか。「SNSも携えて街に出よう」くらいが現実的か。

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