菅野所長のエッセイ:ディーバの継承

先週は土曜日が休みだったことをうっかり忘れていたようで。
どうも、このあたりの凡ミスがまだ本調子ではないのかなと。このあたりの自分の事情はまた来週あたりに書こう。それよりも、

 ホイットニー・ヒューストンが死んだと知って複雑な気分だった。埼玉スーパーアリーナのライブで絶望的に惨めな姿を観て、もはやホイットニーは終わった、復活もあり得ないと見限ってしまっていたからか。しかし、よりによって次の日がグラミー授賞式だと思い出すと、この一年に一度の祭典はどうなってしまうのかと心配にもなった。まさか中止するわけにもいかんだろうがと。

 で録画したものを夜しっかりと観た。うーん、何と言ったらいいのか、まっすぐには楽しめないというか、もしイチローが死んだとして、その翌日に日本シリーズがあったとしたら、それを純粋に楽しめるのかという感じである。ほぼ予定通りに式が進行していくわけだが、胸の中にも、会場にも、ぽっかりと空いた巨大な穴がどうやっても埋まらない感じがするのである。不在であることがその存在の大きさを露わにする。

 唯一会場の雰囲気を変えたのは、やはりアデルだった。その圧倒的な歌唱力と存在感によって、すべての観客がスタンディングオベーション、鳴り止まぬ拍手。つくられたかのような、この、期せずしての需要と供給の一致はいったい何だと思う。
 
 しかし、このとき、ああそうかと。これはディーバの継承式なのだなと。僕にとっては、昔武道館でホイットニーの奇跡のような歌声を聴いて以来、誰も到達できないでいた場所にアデルが今立っているなと。観客や他のミュージシャンの誰もが、その死を悼みつつ、歌手としてのホイットニーはとっくに終わっていることを知っていた。そして、やはり誰もがここでそれに代わるディーバが誕生したと感じたはずである。というより、誕生させなければならないという、暗黙の意志があったとも言えようか。

 それはさておいても、アデルは興味深い歌手である。サウンド的にはイギリス的な野暮ったさがあるけれども、しかし、アメリカでも愛される。ロイヤルアルバートホールでのライブ映像を観ると、さらに驚く。観客には子どもからいい年の大人までいて、それが皆アデルの歌を大声で歌う。まだ23歳だが、その貫禄といったら。これはイギリスの美空ひばりだなと思った。実際、歌のうまさというか、どうあっても醸し出される圧倒感、歌いっぷりは確かに美空ひばりのようなのである。

 日本にも美空ひばり以来、ディーバは出てこない。社会にはそういう存在が必要だ。ホイットニーやアデルのように、老若男女から愛され、皆が口ずさむような歌声があることが必要だ。が、しかし、グラミーのような祭典がないし、単独でそこまで引きつける歌手もいない。だから、AKBなのか、昨今はとにかく一人勝ち。でも本物ではないから、数年の賞味期限。

 つまり自分は何か圧倒されるものが欲しいのだな。彼女が歌い出せば、もはや口をあんぐりと開けて聴き入るしかないような、そんな歌を聴きたいのだ。
 そんなことを期待しつつ、今年も「アメリカンアイドル」のシーズン⑪が始まっている。物心ついてからこの番組を見始めた15~6歳たちがすごい。レベルは昨年に負けず劣らずで、しばらくは楽しめそうだ。

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