北海道か長野の高原にいるような錯覚に陥ってしまう今日の東京だが、どうも全国的に低温化しているようだ。明日からはそうもいかないのだろうが、予想よりも早めに涼しくなっていきそうな気配ではある。まったく、今年の夏は異様だったが、毎年暑さが更新される傾向は変わらないだろう。先日、2100年頃のシミュレーションがあったが、夏になると43度くらいが普通になるらしい。僕は確実に生きちゃあいないが、人類はこの高温にどう対処するのだろうか。
今年の僕の対策は空調服なのだが、これのおかげでゴルフも大丈夫である。今夏はあの京都で何回かゴルフをやった。京都は日本でいちばん暑い所である。いままでは夏に京都でゴルフなど考えたこともなかったけど、空調服がああれば大丈夫だろうと踏んだ。で、やっぱり大丈夫だった。誰よりも暑さに弱い僕が大丈夫なのだから、これの効果は抜群である。関西では同じような空調服ゴルファーがけっこういたね。関東ではほとんど見かけないけど。
京都の夏はやはり格別である。同じくらいの気温でも東京都はまったく違う。京都に比べれば、東京の場合、風が涼しいのである。東京の風は海風、一方京都は海がないから、涼しい空気が運ばれてこない。
というわけで、夏の京都に行くことなどほぼないのだが、今年何回か行ってみて分かったのは、市街のところどころにサルスベリが植えられていることだ。八条口側の駅前にもあるよ。ピンク色のもあるが、何と言っても真紅の花こそがサルスベリだな。漢字では「百日紅」だからね。東京ではまず見ない木である。東京ではサルスベリと似ている夾竹桃をたまに見るけどね。でも、あの毒々しいまでの真紅色は、東京には似合わないかな。まあ、本当に毒性のあるのは夾竹桃のほうなのだが。
空調服というのはほんとに面白いアイデアだと思うのだが、こういった発明には段階があるんだなあとつくづく思う。昔、地下鉄ができた頃、地下鉄には冷房がなかった。地上ほど暑くはないのだが、それでもエアコンなしではほんとに暑い。利用客の不満は最高潮。でも予算がなくて車両にクーラーを取り付けることなどできなかった。しかし、何とかして状況を改善しなければならない。そこで鉄道側が考えたのは、車両を冷房することではなくて、地下道全体を冷やすことだった。
その当時のことは体感として覚えている。地下鉄のホームで電車を待っている間はあいかわらず暑い。何だよ、全然変わってないじゃんと思っていたところに、電車がやってくる。すると、その電車に押し流されてきた冷気が駅やホームを吹き抜けるのである。そのときの爽快さはなかなかだった。全車両にエアコンが装備されてからは、そんな時代があったことも忘れ去られてしまうけど、地下鉄の冷房にしてもそういう段階があったということだ。
空調服というアイデアも、段階があるもののひとつの到達点である。今の生活では、部屋にいれば冷房機器があるわけだが、野外ではどうするか。日本では、古く、うちわや扇子が主たる道具だった。扇風機が誕生し、エアコンが普及すると、家の中ではそれは不要となる。しかし、家の外では、うちわと扇子しか頼るものがない。
そのうちわや扇子を電子化したものが、ハンディファンだった。これもまた画期的なアイデアであり、商品である。ハンディファンは進化し、首掛け式も誕生した。このように、建物や空間全体を冷却するという仕組みは基本として大事なのだが、近年の熱波時代にあっては、個人個人を冷却するツールが必要とされている。その到達点として空調服が生まれ、大人気となっている。パブリックな冷房からパーソナルな冷房へ、という変遷ということだ。
さてしかし、物事には何でも終わりがあるように、果てしがないようなこの夏もいよいよ終わるのかなと思える。この夏、実は個人的に課題があったのだ。ひとつは、美味しい桃を食べることである。2年前に岡山で桃が食べられなかったのがちょっと悔しくて、去年美味い桃が食べたいと思い立ったのだが、そう思い立ったのがちょっと遅かった。桃の季節はすぐに終わり、望みは叶わなかった。
そこで今年は6月くらいから桃に注意を払っていた。果物屋やスーパーで。でも難しいなあ。見ただけでは分からないんだ、これが。桃の売り場には「桃をツンツンしないでください」と注意書きがあるし。みんなやりたくなるんだよねえ、やっぱり。
「今年の目標は美味しい桃を食べることなんだよね」と人に言うと、一様に「それは難しい」と言う。みんな見た目では分からないことを知っている。メロンとかスイカもそうだが、桃はいちばん難しいのではないか。ということで、何回桃を買ったか分からないが、「これ最高!」というのには当たらなかったな。残念。
値段も高いしな、来年からはあきらめよう。