菅野所長のエッセイ:記号としてのマスク


引きこもりだったなあ。ほとんどケーブルで海外ドラマを観るだけの日々。僕はそれで大丈夫な人間だが、天気がいい日はゴルフにでも行ければと思った。友人たちはみなビビちゃってるもんで。それはひとつには世間体ということなのだろうが、それが悪いと言いたいわけでもない。そういう感覚が日本を救っているわけだしね。

でもそれだけに頼っていてはいけないよね。厚労省と専門家会議の意見などほっといて、韓国のマネをすることだね。検査数を上げて、もっと陽性者を見つけてこれを隔離する。これが根本的な解決。自粛することじゃない。無策を棚に上げ、国民に強いることで解決を図ろうとする根本は政府だが、厚労省も専門委員会もそれに乗っかってるわけよ。医系の技官なんてのはいちばん信用ならないね、僕は。
実は先週、珍しくも原稿依頼があった。GWがあるので仕事場での猶予は2~3日しかない。それを2日で片づけた。新型コロナ禍にまつわることなら何でも書いていいという感じだったので、すぐに書けた。金子書房さん、いつもありがとうございます。

けど例によってカウンセラーらしさはなく、ほとんど社会人類学だな。論点は、このコラムで書いたように、欧米に比べての日本人の特性についてということかな。

前にも言っているように、僕はマスクの効用をほとんど信じていない。そりゃあ、医療従事者や老人施設の人とかには必須だが、対人近接がほとんどない場合には不必要に近いと思っている。ただし、もしも感染していたら、自分が他の人に移す側になってしまう、何よりもそれを怖れるのでマスクを着用している。これが第一の理由だ。
けど、ほんとは無用と思っているから、家を出るときには忘れていることが多い。だから、カバンの中にマスクを入れてすぐに着用できるようにしている。そんなふうにがんばる第二の理由は、僕が着けないことでそれを見た人が不安になるであろうからである。現在、日本人の99%がマスク姿なのは、感染予防という以外に僕みたいに思っている人がいるからではないだろうか。それも無自覚に。

つまり本来のマスクの機能とは予防にあるわけだが、第二の理由では、本来の機能、目的、役割が遊離しているのだ。この場合、マスクとは記号なのである。会社員のネクタイのように、それを見ることで相手が何者かを知る。
自分も相手もマスクをしていることで、われわれは同じルールを共有する者として互いを認識し、そこに共同体的な安心を得るのだ。前にも書いたように、政府の無策にあって、それでも感染を抑えられているのは、ひとえに日本人の共同体性のおかげだろう。ロックダウンなどしなくても、人々が自粛する国なのだ。アメリカでは武装した市民が解除を求めてデモしたりするが、日本人は精々パチンコ屋が反抗するくらいのものだ。しかも、店側も客もみなマスクをしているのがかわいい。

僕は以前に日本のマスク信仰について触れたが、ここへ来てもっと精緻な解説が必要になったかなと思う。皆が同じ行動をすることを同調行動と呼び、日本人は同調する傾向が高いと見られており、それは確かではあろう。けれども、「他の人を不安にさせないため」という理由から結果として同調的な行動となるような場合もある。人々はみな多数に雪崩を打って同調するというのが「同調」のイメージであろうが、決してそういうことでもないんじゃなかろうかと僕は思った。それでは単純すぎる。たぶん、「個」が強い欧米ならではなの「同調」と、日本的、アジア的なそれとは質が異なるのではないかと思うのだ。

早くも解除に向かってふつうの生活に戻ろうとするドイツと韓国の街の映像を見て気づくのは、ドイツではほとんどの人がマスクをせず、韓国ではほとんどの人がマスクをしていることである。この違いは何だ? その辺にも面白い答えがありそうだ。
さて、天皇賞。フィエールマンは勝ったが、2着のステイフーリッシュは買わずで、またダメだあ。いつまで続くぬかるみぞ。今週はNHKマイルカップ。枠順次第では思っていたが、有力馬がいい枠で波乱は望めそうにない。②タイセイビジョン③レシステンシアの2頭から、⑰サトノインプレッサ⑭ルフトシュトローム⑥ギルデッドミラー⑧サクセッシヨンへ。大穴だったら⑩ハーモニーマゼランかな。