菅野所長のエッセイ:片隅で生きる


今週は今日でお終い。明日からは長崎で友人児島さんの退官記念行事に参加しなければならない。彼が以前東京にいた頃、僕と高良さんと3人でよく飲み語らったものだった。

で、今週連絡があり、そこでもまたスピーチを頼まれてしまった。今回のは祝辞に近いものになるわけだが、こんなにも短期間に弔辞と祝辞をするなどとは夢にも思わなかった。先日のひどい体調不良のこともあるし、遠出するのは少し不安でもある。

1週間は何とか乗り切れるようになった感じがするが、ここまでのところでは、日曜になると具合が悪くなる。たぶん土曜日までで気力が尽きているのだろう。先週の土曜などは、夜、職場で一人になったとき、今まで味わったことのない寂寥感に襲われてじぶんでもどうしていいのかわからなかった。

とはいえ、眠るほうは大丈夫にもなったし、来週には、疲れはあるだろうが、より元気を取り戻しているように思う。

自分がこんな状態であるときにも、世の中ではいろんなことが起きていて、やはりいろんなことを考えてもしまうが、今日は映画の話をしようかなあ。アカデミー賞でとんでもない凡ミスがあったらしいが、そのシーンは見逃している。まあ、でも何が受賞しようがどうでもいい感じだ。今年になって「グラントリノ」を2回観たが、この10年でこの映画以上のものはないなと、何回観てもそう思う。

先日は、ちょっと元気があったので「この世界の片隅で」を見に行った。アニメと言えばジブリものが相場で、近年は新海誠だが、これはそういったテーストとはまったく異なるものだ。
結論的には、今まで感じたことのない不思議な映画というのが僕の結論である。映画が終わって、駐車場に歩いていく途中なのだが、ふと先のほうに主人公のすずが風呂敷包みを抱えながらとぼとぼと歩いているような、そんな錯覚に陥ったのである。もちろんいるわけもないのだが、もしやと思って後ろを振り返る。もちろん、そこにもいるはずもない。
でも、いるような気がするのである。

こうした錯覚に陥るということは、この映画が、市井の、そして当たり前の人物たちを当たり前に描くことに成功しているからであろう。監督もそれを大事にしていて、戦争の悲惨とか原爆の恐怖とか、そういうものも大げさに表現しない。ただひたすら、あの時代を生きた平凡な一人の女と、これまた平凡な、その周辺の人たちを淡々と描くのみである。地味と言えばその極地。しかし、だから退屈するとかはまったくない。この監督の力量は相当なものだし、後で知ったが、主人公すずの吹き替えがあの能年怜奈(いまは、”のん”と改名している)で、これが実にうまかったことも大きい。

絵画でいえば、ダリとかエルンスト、カンデンスキーといったいかにも不思議な表現をする画家がいる一方で、マグリットのように何でもないような絵がたとえようのない不思議を醸し出す人もいる。この比較からいえば「この世界の-」はマグリットのほうではないかと僕は思う。

アニメの話題と言えば「君の名は」だけど、新海監督のこれまでの作品から、思春期のいじましさが描かれるだけであって、そういうのが嫌いな僕はものすごく不快になる。こじらせ気味の中高校生にはいいんだろうがね。でも大人の映画を観たい者にとってはどうなの? アジアではうけるんだろうけど、ヨーロッパやアメリカではダメでしょ。 よく知らないけど。